『尾張猫』023〜048話



23〜30話

 悪平太は、三条大橋を渡った白川に五郎左を連れてきた。
 都の荷物を狙う山賊から荷や人を守るための警護隊を紹介しようと、馬借宿で老僧に会い、「この者はどうか」と対面させた。
 老僧は、五郎左の顔を見、名乗らせると、そのなまり、目つきから、五郎左が現在までに置かれた身を言い当てた。
 この老僧は宗長といい、連歌名人だった。
 五郎左は兵法に長け、とんちにもとんでいると、悪平太から紹介を受けた老僧は、納得する。

 東国に向けて旅だった宗長一行。
 防具を身につけている五郎左に、山賊は怖くないから外せば、と言う宗長。
 以前、宗長の師が山賊に襲われ、連歌師に欠かせない道具である"髭"に目を付けられた。そこで、許しを来い、一首を詠んだところ、山賊は感動し、武具を捨て、出家していったという。
 五郎左は、それは20年以上も前の話であり、今は戦国の世なのだから甘い、と感じる。

 一行は、ついに難所の鈴鹿に入り、夕刻には宿に入った。
 五郎左は、なぜこの道を選んでいくのかと、弟子の宗牧に尋ねたところ、関所が少ないという答えを得た。関所にかかる税金が物価高を生むのだ。

 宿の見張りは、京での町家見張りと似ている。屋根の上にいると、京で別れた意外坊と再会した。
 尾張に向かっているらしい意外坊から、荷が狙われているという情報を得る。
 鈴鹿の関守に報告しようと五郎左は提案するが、関守とは賄賂をやりとりする関係だから無駄であると、意外坊は言う。
 意外坊は宗長とは懇意のようで、防御を張ろうと言う。

 山賊の大将は蟹ケ井氏らしい。
 京下りの荷をねらう山賊は、宗長がいることを知り、名のある連歌師を捕らえ、連歌会で一座の宗匠に据えようとたくらんでいる。
 国司も手を焼く山賊は、風雅だった。


31〜35話

 山賊大将の蟹ケ井団々入道包盛が放った物見は一様に、宗長一行が風流に過ごしていると報告する。
 山賊たちが意気揚々と関の宿に襲いかかると、逆に矢が放たれ、山賊たちがみるみる倒されていく。そして、団々入道の額にも、矢が刺さった。
 討ち取ったのは五郎左だった。
 宗長の馬飼いたちは、倒れた山賊の武具を奪い、衣服をはいだ。そして、団々入道の大鎧を所望し、お金を対価として五郎左と引き替えた。

 翌日、鈴鹿の関守が、山賊を殺して得た分の三分の一を要求してきた。
 スキあれば利益を得ようとする関守に憤慨する馬飼いたちだが、無用な争いを避けるために仕方なく、太刀などを渡した。

 出発前、五郎左は急に従僕の身を解かれた。
 荷駄を守ったにも関わらず、武者暴れし、連歌師・宗長の名に傷をつけられたと、宗長はへそを曲げたのだった。

 一行を見送り、伊勢で兵法を教えて暮らそうと言う五郎左を、意外坊は、尾張へ誘う。
 尾張八群のうち、下の四群を領する織田大和守家について、五郎左に話す。織田月巌入道信定は、人を生まれでは判断せず、才覚とお金で観るという。


36〜40話

 この世を支配しているのは、寺社、武家、商人。中で一番稼ぎについて一番遅れているのは武家で、力は持っているが年貢だけに頼っているのが現状。その年貢を、信定は銭納にしていた。
 また、商人から直接お金をとるべく、木曽川河口の津島の湊に目をつけ、関税を取っていた。
 その信定が最近死に、意外坊は、今まで働いた分の銭をもらおうと尾張に下ろうとしていて、五郎左を従えたかったのだ。

 家中の内紛に入ることは断ると、五郎左は言う。
 では別れの盃を交わそう、と意外坊は言う。すると突然、少女が現れた。
 五郎左は酒を注がれるままに飲み、ついに酔っぱらった。
 酔って舞を舞い、唄う、五郎左。
 そのうち、鈴鹿山中の宮殿に連れていかれ、しばらく行くとひとりぼっちになっていた。

 池の方から一艘の船がきた。
 御簾の隙間から白い手がおいでおいでしている。五郎左は誘われるままに船に飛び乗った。そこにいたのは、先ほど出会った少女だった。
 言われるままに横になり、少女の膝を枕にした。五郎左は、京を離れて良かったと、心地良い気分でいる。
 ここは異朝の恒河であると少女から聞かされ、五郎左は驚く。
 恒河とは、ガンジス河のことだった。
 管弦の音が聞こえ、女の頭を持った鳥たちが鳴いていることがわかった。
 五郎左は、生きながら仏の世界に来ていることを感じる。天女と指をからませ、少女と仏の世界の交わりをする。


41〜48話

 伊勢の国で兵法の師匠になろうかという五郎左は、天女から意外坊同様、尾張に行くことを勧められる。
 尾張行きを決めると、ぼんやりとした仏の世界から目覚めた。

 鈴鹿の関屋から山中の楼閣に入り、船に乗せられて天竺へ・・・と思っていた五郎左は、船は木曽川の河口にいることを知らされ、混乱する。
 怪しの仕業とまるめこみ、まるめこまれ、意外坊と五郎左は、尾張国である馬津の渡に着いた。

 そこでまだ巨大な船に乗った二人は、飛び交う尾張の話題に耳を傾ける。
 「一番危ういのは、今川の那古野城。城主・竹王丸は6才で、本家から分家に送り込まれた後継ぎ養子。これには織田家も黙ってはいまい。しかし、竹王丸は、駿河今川の子供。後見人は守山城の松平与一。守護の斯波家も守護代の織田家も、そうそう手は出せまい。
 織田弾正忠が生きていたら、那古野もひとひねりだったのに。弾正忠の後継ぎも若い。後家が後見をしているが、その後家も病気がち。もしかしたら那古野の今川家よりも危うく、織田大和守家に乗っ取られるかもしれない」
 という情勢だった。

 五郎左はあっけらかんとした内容に驚く。しかし意外坊に言わせると、津島周辺では信じるものは己の手技と銭だけだからということのよう。
 その意外坊も、後家が病気であることは知らなかったようで、約束のお宝をもらいっぱぐれるかもしれないと思う。

 船が津島に着いた。都のにぎわいに慣れている五郎左でも驚くほどの活気を感じていた。
 時宗の念仏僧・行阿に、宿泊先となる寺・正覚院に案内された。
 行阿は説明する。「中興開山は政長上人。この寺は三年前の兵火でも焼けず、昨年には連歌師宗長もきて盛況だった」。
 津島は、織田信定(月巌常照入道)に焼かれていた。これを恨みに思う者もいて、連歌興行はこれを埋めるものとして行われていた。

 五郎左は、見物をしたり、宿坊の人々と世間話などをして十日あまり過ごしていたが、そのうちに、五郎左は都の話をせがまれるようになった。子供のころに西ノ岡の寺にいた時に覚えた笑話を提供し、また、津島の町の物語を得た。
 津島は、昔、牛頭山長福寺の子院の一部が三宅川の上流から下流の天王島に移り、市が繁盛したのがはじまりという。
 というのは、木曽三川の洪水が運んできた泥で、長福寺門前の川湊が埋まり、船運が滞った。そこで天王島の大きな中州に人が集まるようになった。が、長福寺の隣に城を築いていた織田弾正忠家が新たな市の税を得ようと乗り出したきた。
 商人たちは抵抗し、武器を持ったものの、弾正忠信定に町に火をかけられた。これが大永4年のことという。

 五郎左は、商人でも武器を持つことに驚いた。
 津島商人は、堺に強い対抗心を持っているのだ。織田家でも抑えられないのではないか、と五郎左は思う。

 翌日、木曽川の河原を歩いていると、背後に人の気配を感じる。
 獣ではなく、烏帽子をかぶり直垂をまとった人・武士だった。
 秋草を狩っていたという武士から、「正覚院に滞在している者であろう。一度、我が館にも来てほしい。使いを出すので」と誘われる。

 その晩、意外坊から、それは織田弾正忠家の嫡男・三郎(信秀)であると知らされるが、五郎左は意外坊のいつにない丁寧な話ぶりの方が気になった。そして、意外坊に、毎日どこに出かけているのか、と問うた。
 意外坊は、清洲の尼寺に出かけていると答える。



『青銭大名』のトップへ

別冊ナカジンの表紙へ

表紙のCONTENTSへ