『今川問答』103〜120話




 僧となり、意足坊尊明の名を持った五郎左は、駿河府中へと旅立った。廃寺や短歌の舞台を訪ねる見聞の旅だ。
 遠江から駿河にかけては、領主・今川の影響もあって京を好み、都とはどういうところかを話す文化の伝播者は重宝がられた。
 今川の当代当主は、15歳。当主に就任してまもなく、子供ならひとたまりもないと戦を仕掛けた者がいた。県居で世話になった鴨江という者は、その1516年の戦いについて思いを語った。

 国人領主たちは、今川の国盗りを見過ごすことができず、立ち上がったのだった。しかし、破れ、また、戦のあるたびに田畑を放り出かけるのがツライと嘆く。
 そして鴨江は、三河の土豪たちの動きを気にしていた。
 三河は今川の侵入を受けたが、本家松平家がそれを防いでいたのだ。
 松平家は次郎三郎清康が13歳で7代目を継いだ。若かったが、子供ならちょろいと攻めてきた西郷信貞を夜討ちで破ったのだ。その若い武功者が、いつ遠江に攻めてくるかを心配していた。
 当主・今川氏輝は15歳、清康は17歳、最近尾張で守護代と争っている織田弾正忠家の主も17、8歳と、若者の活躍に嘆息する。

 意足は鴨江に見送られて、旅立った。
 旅の難所では、山賊防止に、旅人同士が団体を組む。
 小夜の中山へ向かう意足坊は、「牛」と名乗る者と一緒になった。
 牛は旅の絵解をしていると、自己紹介した。九州・日向国児湯郡の生まれで、都万神社の所属、コノハナサクヤヒメの縁起を語っていると言う。
 コノハナサクヤヒメは駿河の国の浅間神社のご祭神でもあり、牛と今川とのつながりを察し、意足坊は警戒を露にする。
 が、牛は、北条家や甲斐の武田家にも語っているのだ、と言う。
 意足坊は、鎌倉時代の北条家がまだ健在なのかと驚くが、今川の守護代だった伊勢殿のことだと教わる。

 二人は語りながら峠を下りた。難所はまだまだ続くが、意足坊は、伊勢物語の風景を見られると、楽しみにしている感がある。
 出家した身で歌の中でしか知らない土地を実際に見られることを幸せに思っている。
 そんな意足坊だから、牛は連歌師・柴屋軒(宗長)と会わせたい、と言う。
 意足坊は、以前宗長の従者だったことを明かし、今更恥ずかしく思う。
 宗長は最近では寂しい生活を送っており、ぜひ会ってほしい、と牛からせがまれる。

 蔦の細道を通り、山越えをし、宇津の里で宗長と再会する。

 意足坊は、賊を退治したのに殺生だからと宗長から追い出されたために出家したわけではなかったが、宗長は自分のせいだと悔やみを表した。
 それを利用した意足坊は、宗長の庵に2ヶ月くらい留まる。
 ある日、牛が、文の使いを忘れていたことを思い出し、大慌てで庵を出て行った。
 牛と意足坊は、互いに、また会うだろうことを予感している。

 牛がいなくなり、閑散とした庵で、意足は宗長のためにマメな働きをしていたが、老人の鬱がうつることを心配し、旅立ちを決意する。
 そこへ、今川家重臣の岡部左京進が、柴屋軒の監視にやってきた。
 宗長が意足坊の前歴や兵法の腕前を紹介すると、左京進は興味を持ち、府中に連れてゆきたいと言う。
 意足坊も願ったりかなったりで、庵を出たのだった。

 柴屋軒から駿河府中までは、富士山を眺める旅となり、意足は歌を詠みながら歩いた。
 左京進は、府中には下向した公家が大勢いる、と話す。
 都の戦乱等を避け、人づてでさまざまなところへ下向した公家の多くは、都へと戻ったが、駿河に下向した人たちは、京文化に造詣の深い今川家の下で心地よく暮らすことができた。
 意足は、なぜそれほど公家を大切にするのか、尋ねた。
 左京進の語りから、三河の国司を望む今川が帝の力にすがりたい気持ちが察せられた。
 しかし帝の周りでは、安易な官位昇進をよしとしない者もあり、その一人が今川家現当主の母・寿桂尼なのだった。

 左京進に案内され、手越から安倍川を渡って府中に入った意足。
 府中の街は京にとてもよく似た造りになっていた。
 これなら公家が離れたくないのもわかる、と意足は思うと同時に、京と比べてきれいすぎる、と思うのだった。

 意足は思う。
 「足利将軍家を支える重要な家が帝の権力におもねようとしている」。
 下向した公家たちはいずれ京に帰れば、今川の良さを語る。それが朝廷にも伝わる・・・深謀だった。
 今川家当主の後見人・受桂尼と、善得寺の僧で芳菊丸(後の今川義元)の教育係をしている雪斎の輿が、大路をやってくるところに遭遇した。

 意足は、二か月ほど、左京進の屋敷に滞在した。滞在中、香道や蹴鞠で素晴らしい技を見せ、当主・氏輝がお忍びで見物するくらいの噂人となった。危険を感じた意足は、左京進に別れを告げ、江尻(清水港)へと向かった。

 清水は、伊勢の大湊から武蔵品川の湊に至る海の交易路の中間点だ。ここの大商人は津島の商人とつながりを持つ。
 意外坊から指定された店に入った意足は、数年、ここを拠点にする。
 相模、武蔵にも行った。
 その間、柴屋軒が八十五で亡くなった。

 柴屋軒に行くと、牛が意外坊からの文を持って、居た。
 「帰るべし」と書かれていた。



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