『接待大名』121〜138話



121〜130話

 1532年(天文元年)、意足は、焼津から西廻りの航路で津島に入り、尾張に帰った。
 津島の湊で、平手政秀と再会した。
 三郎信秀は二十三、四になり、嫁を娶り、守護代・織田大和守との戦いは続いていた。
 勝幡城を見て、立派に変化している様に呆然とし、津島・萱津からの収益は莫大だろうことを察した。

 久しぶりに見る信秀の顔立ちに、精悍さを感じる意足。
 再会の宴で、信秀は、意足と別れてからの合戦話や津島の関税に関する話、西国との交易促進している話をした。
 しかし交易による関税のみならず、判銭という、地域を制圧した武士が兵士の乱暴狼藉をさせないようにするために出す札を寺社や民に買わせる収入があるという。
 意足は、洗練された今川家領地での暮らしと、比較せざるを得ない。
 信秀から、敵と和睦しようと思うと打ち明けられる。
 というのも、松平清康が今川と手を結んだことを用心し、尾張者同士で争っている場合ではないと思ったのだ。
 和睦は帝にすがる、と信秀は言う。朝廷の台所領や公家の所領が、合戦によって奪い取られているが、それらを取り戻すと言えば、朝廷も和睦にのってくれるだろうと目論む。そして、意外坊がそのために都に行っている。そして、この工作のためには銭も必要だと、信秀は言う。


 この年の秋、守護代・織田大和守達勝と正式に和議を結んだ。
 とはいえ、守護代家と同調して信秀と戦っていた織田三奉行の一人、織田藤左衛門の配下と、信秀側について地下人との間には争いが続いた。
 藤左衛門は、信秀の叔父にあたり、西枇杷島・小田井城主だった。

 翌年、田植えのころ、意足が水争いの仲裁のために枇杷島まで出向いた際のこと。
 牛を飲み込むという女の見世物(幻術)に遭遇する。
 見物人が見物料を投げ入れて去ってゆけば、後に残ったのは意足と従者だった。
 蓬子との再会だった。

 蓬子は、守護代家で雇われていたようで、しかし和議により放り出されたという。そのため、食べるために牛飲みの幻術をやっているのだ。

 蓬子と別れて、仲裁の場所へ向かう途中、茂みから武器で身を固めた者たちが現れた。
 水争いの仲裁にかこつけ、小田井領の百姓を手名づけようという魂胆を見過ごすわけにはいかない、と意足の首をとろうとしていた。意足が兵法者であることも調べ済だった。
 その窮地を救ったのは、胸騒ぎがしたからとやってきた蓬子だった。


131〜138話

 蓬子は意足に、自分の技を買ってくれ、と持ちかける。
 蓬子のような者を野放しにしておけば信秀の敵になるかもしれないが、意外坊との確執が気になる。蓬子は、信秀が立身するまでは彼を襲わない、と約束する。
 意足の意識が一瞬ぼやけ、気がつくと、従者が隣に立っていた。

 意足は水争いの仲裁を終えて勝幡に戻った。
 城には、津島の有力商人たちがやってきていて、中には、以前意足が討った服部家の者も何人かいて、織田家が取り込んだことを察した。
 津島天王社の神職が、商人に金をかり、返しきれず逃げたとのことで、信秀は商人たちに、借金の破棄と祭祀復興を提案したという。
 意足は、借金破棄と、神職の復帰を公文書で命じるようにと提案する。いざという時に、商人のみならず自社をも味方にする策だった。

 三郎に冷やかされた意足が自宅へ戻っていると、蓬子が嫁のように甲斐甲斐しく働いていた。
 技を買うということが、嫁にもらう、になっていた。


 1533(天文2)年の春、意外坊が都から帰ってきた。
 飛鳥井雅綱、山科言継が、秋には下向するという。
 表向きは、都の文化を教えてもらうということだが、実際は、和議後交流のない守護代・大和守家と新たな交流を持つことが狙いだった。
 それには、弾正忠家はまだ無名のため、大和守家に守護代として使者を立ててもらうべし、と意外坊は言う。

 駿河へ下向した経験のある両公卿は招待を喜び、飛鳥井は蹴鞠一式を、山科は和歌についての資料を、それぞれ用意し、家人や警護、荷駄等の隊列を組んで、7月に津島に入った。

 信秀が勝幡城に招き、宴を催し、また、新しく建てた客殿へ二人を迎え入れた。

 翌日には早速蹴鞠をやった。
 そうして守護代家に、公卿らが使者を出した。
 ついに、大和守達勝が勝幡にやってきた。一緒に蹴鞠をやり、帰って行った。
 その晩、大和守から公卿らへ、蹴鞠のお礼にと太刀が贈られた。それを取り次いだのは意足。

 大和守が蹴鞠をやったということは、あっという間に尾張に伝わり、すると、守護代贔屓の土豪らも勝幡へ、公卿らの挨拶にやってきた。
 蹴鞠を教わるために授業料を持ってきているため、あっという間に、公卿らの宿所は財物が積み重なった。

   平手政秀が見事な太刀を贈ったり、政秀の子供が楽器を演奏したり、津島の有力者たちの子弟が笛を演奏したり、と接待攻勢は続く。

 23日、那古野今川氏の主、12歳の今川竹王丸が、太刀とお金を持参した。
 竹王丸は蹴鞠の作法を伝授された。
 泊っていけば良いと信秀が勧めたが、傳役が丁重に断り、夜道を帰っていった。
 見送りながら、信秀は、那古野城からせっかく出てきた竹王丸を討っておきたい、とつぶやく。
 意外は、せっかくの評判が落ちるから、時期を待つようにと諌める。

 竹王丸はその後も那古野から通ってきた。公卿らは蹴鞠の作法を教え続けた。
 27日、公卿らは守護代のいる清須に宿所を移した。信秀、竹王丸も同行する。

 8月10日、公卿らはようやく都に帰っていった。


 蹴鞠と和歌の催しは、信秀の財力を示す機会となった。そして、大和守との新たな関係ができ、今後の礎になった。そして、交友関係は従来の尾張海西郡、海東郡を超え、愛知郡、春日井郡にまで広がっていた。



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