川中島の戦い 2004/07/03(土)
帰省ついでに、また八幡原付近へ行く。
犀川の土手にある、典厩寺(曹洞宗)。土手から寺の全景を眺めると、本堂に武田菱が大きくある。
武田信玄の実弟で副将だった武田左馬之助信繁の墓がある。「左馬之助」は、唐の官名「典厩」に相当することがこの寺名となった理由のよう。
1561年(永禄4年、桶狭間の翌年)、この寺を本陣とした信繁は、37才で討死している。
寺に入って左手、本堂前に、閻魔堂があり、東洋一といわれる閻魔大王像がある。川中島の戦いから300年を記念して1860年から1864年にかけて創られたという。天井には、天部が描かれている。
閻魔堂の脇にある、信繁の首をきよめたという「首きよめ井戸」は埋められていて、ドクダミが咲いていた。
本堂正面の左右には、風林火山のいわれとなる文章の旗と「毘:龍」の旗とがある。一番奥にお墓があり、「松操院殿鶴山単月大居士」とあった。
そこから、山本勘助の碑があるところに行こうと思うが、どこにあるかがわからず諦め、長野市街への通り道にある、「おぎのや」に寄る。
「峠の釜めし」で有名な「おぎのや」の、ドライブイン。1階はレストランと土産物屋。2階は団体用の広間となっている。
2階に行くとすぐに、川中島の戦いの屏風絵がある。その解説によると、武田上杉両軍はにらみつづけただけで、血の流れない戦いをしていたのだという。しかし、濃霧のために両軍が偶然のように八幡原で衝突してしまい、大きな戦いになってしまったらしい・・・。
1階の土産物屋には、川中島の戦いや武田信玄、上杉謙信のグッズがある。(武田神社前の土産物屋にはかなり負けてはいるが。)
(やっぱり)キティちゃんが謙信・信玄になったボールペン、シャーペン、携帯ストラップといったものがある。
栗の入った白あんと栗の入った黒あんとの味の合戦中という「川中島 くり合戦」饅頭。
「信玄ほうとう」。
「信玄餅」。
「信玄饅頭」(黒と白の2種類の、ふつーの饅頭)。
松代の文化財ボランティアの方が作った本「城下町 松代」。これは、海津城(松代城)の復元が完成してから作られていて、速攻性資料としての価値は大きい。
「松代町 地図」。これも、旅行者に限らず持っていると便利。(これを見て、勘助の碑の場所がわかった。)
松代にある農協には、
「川中島煎餅」。これは、卵とはちみつ、小麦粉だけで作られている、薄くて甘い、煎餅というか、和風クッキー。馬上で刀をふりあげる謙信が描かれていて、その上に詩のようなものがある。
「降ると見て 笠とる ひまも なかりけり 川中島の 夕立の雨」
外パッケージには「ああ、多年の好敵手とも 再び相まみえる日は もうないのか。」という謙信の言葉が印刷されている。戦友を亡くした悲しみが感じられて、ぐっ、ときてしまう。
「謙信しいたけ」。なぜ「謙信」なのかわからないが、「謙信」とついていれば買ってしまうような、ナカジのような人を狙っているのか・・・。(買ったし・・・。)上越で採れたしいたけは、白っぽくて、柔らかい。
「川中島納豆」。これまで食べた納豆で最もおいしいと思うもの。
・・・けっこういろいろなものを買ってしまい、あっという間に散財している・・・(笑)。
長野において武田と上杉両方の物があるというのは、ここが戦場になっただけ、だからかもしれない。上杉方だったり、武田方だったり、あるいはどっちつかずだったり、そんな状況でどちらかが優勢になるわけがない。
結婚式などで酒を酌み交わす「北信流」という習わしがあるけれど、相手がどちら側の人間かをさぐるためにその頃に生まれたという説があり、戦国時代から人の心に伝わっているのだとすると歴史ってそういうものの積み重ねであって、何一つ無駄だったり意味がないことなどないのだな、と思う。
fin
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