三浦半島


 三崎・海南神社(三浦七福神の一つ・弁財天)における奉納踊「ちゃっきらこ」を見るために、三崎港へ行く。集まったのは4人。
 神社の由来は、、、
 「祭神・藤原資盈は、藤原鎌足の子孫。太宰府にいた時、伴大納言善男の謀反に誘われたが拒んだことで善男から恨まれ、博多から船で逃げたりしたが、暴風雨にあい、三崎に漂着した。そして民をよく治めた。その後、房州の海賊を攻めて戦死する。その死を痛み、民が神として祭った」とある。
 「ちゃっきらこ」は、藤原資盈(すけみつ)の妻、盈渡姫(みつわたりひめ)が村の娘たちに伝えたものという説と、源頼朝が三崎に来た際、海辺で磯採りをしていた母娘に踊を所望したところ、母が唄い、娘が踊ったものという説とがある。
 本来ならば参道や海南神社の本宮(神社のすぐ近く)などで3回踊るらしいが、あいにくの天気で、神社内の舞台で1回だけの踊りとなった。
 下は4才から上限は12才までの少女たち約20人が、晴れ着を着、メイクをし、扇子や、竹の両端に短冊や鈴をつけた小道具を持って、踊る、というよりも、舞う。楽器はなく、老女3人による唄に合わせ、時々かけ声をあわせる。少女たちの声がピュアで、舞は素朴で、なかなかおもしろいものを見たと思う。
 境内には、三崎らしく、「包丁塚」があり、魚を供養しているらしい。

 頼朝が設けた三つの御所を訪ねる。
 まずは、桜の御所、本瑞寺。
 ちょっと小高いところにあり、城ヶ島の桜見物もしたという。
 新井城で滅亡した三浦氏の菩提寺である本瑞寺が、この地に移ってきているらしい。
 黄梅・ピンクの梅が、咲いていた。
 次は椿の御所、大椿寺。
 白秋の旧宅近く。
 こんな短歌が詠まれている。
 「大きなる椿の樹あかあかとひとつも花を落とさざりけり」
 こちらは、大椿寺近くの自宅が高浪でさらわれた後で移転した地から大椿寺へ来た時に詠んだ短歌。
 「この寺が大椿寺ぞと入り来て寂しと出でぬ日暮二人」
 そして最後は、桃の御所、見桃寺(三浦七福神の一つ・布袋)。
 歌舞島の裏にある見桃寺はこれまで見てきた「寺」とはちょっと違う、近代的建物、で意表をつかれたような、残念なような、ちょっと笑ってしまう建物だった。

 光念寺。
 和田義盛陣中守護神であった弁財天が置かれている。この弁財天は、海南神社の弁財天の「親」(=海南神社に置いてある弁財天が、コピー)。
 歌舞島。
 むかしは島だったが、今は埋め立てられている。こんもりした感じや、浸食されている様子から、島だったことがわかる。
 頼朝が、歌舞饗宴を催した島。
 三崎城址。
 北条早雲に破れた義同が油壷・新井城に亡ぶ時、落城した。
 それから、北条氏5代にわたり兵を置いたため、北条山の地名が残る(北条湾、もある)。しかし、秀吉に攻められ、小田原北条氏の滅亡と共に廃城となる。
 緩やかな坂をのぼってゆくと城址の石碑があるが、そこは「城があったような、なかったような、、、」という所。しかし、さらに歩くと、L(これを逆にした)状態の道路で、敵が攻めてくる勢いを緩める作戦、つまり「城があった」という雰囲気がみえてくる。さらに歩き、近代の戦没者慰霊碑を越えた所は、「頂上」といえる所。崖の上であるそこから北条湾や三浦の町並を眺めると、「城はあった・・・」と落ち着く。

 おやつに食べたものは、「お魚センター」みたいな所にあった、「まぐろコロッケ」。カレーコロッケに似た味だった(?)。
 お昼は、「あづま丼」。ごまが聞いた醤油たれに漬けたまぐろがのった丼。

 雨が降っていたり、風がとても強かったり、あいにくの天気だったけれど、三浦を堪能する、内容の濃い、おもしろい史跡めぐりだった。

 企画してくださり、また、本日お集りだったみなさま、ありがとうございました。

fin


別冊ナカジンの表紙へ
表紙のCONTENTSへ