都内の歴史(神社)探訪 【2006/04/23】



 思い立って神田明神へ行く。

 祭神は、大己貴命・少彦名名・平将門。大黒様とえびす様とまさかど様。商売繁盛、戦勝祈願などの御利益があるらしい。もっと前にお参りしておくんだった・・・。
 末広町から徒歩10分。裏口から入ったために、手水でお清めを忘れた。
 結婚式が行われた直後だったようで、新郎新婦や親戚の方々が本殿前に出ていた。いいなぁ〜、黒い地の着物・・・いいなぁ〜、将門に結婚を誓うのって。
 良い風景を見させてもらいました。

 ここのお祭りは江戸の一大イベントで、現在の日本の三大祭りにもなっている。家康が関が原の合戦の際に戦勝を祈願したところ、(旧暦)9月15日に勝ちをおさめ、それ以降、末永く祭りを行うことを命じたらしい。
 御朱印をいただき、お参り。土産もの売り場を眺め、ノリで、将門煎餅と置物(兜の上に、武田菱や北条、島津の旗が立っている。なぜ島津???→夜中、考えていて思いついたが、関が原の際、敵軍突破の敗走劇を繰り広げたからか。そうだ! あと、こいのぼりも立っていて、季節感があるので買い!)を買った。
 それから、宝物館へ。
 展示室に行くと、暗く、入り口に将門の人形があるのがわかる。なんだか怖い、と思うと突然電気がつき、超ビビった。来館者があると電気がつく仕組みになっていたらしい。
 祭りの山車が展示されていたり、将門お手彫と言われる妙見像があったり。将門は妙見(北斗七星を神として崇めた名称)を武神として信仰していたらしい。(謙信は毘沙門天を武神としていたね。)
 敷地内を一周してみると、銭形平次の碑があったり、、、、猿田彦大神を祭っている社があった。天孫降臨のとき、高千穂の峰に先導した神さまだ。よって、営業の方向や土地の方向等の霊験あらたからしい! ということで、しっかりお参りした。


 どうせなら、と湯島天神へ向かう。
 何となくこっちかね、と歩いてゆくと一本道でつながっていることがわかった。その道にある、清水坂。神田明神から湯島天神への通りをよくするために、当時清水精気(だったか?)の土地だった部分が開放され、お礼として「清水坂」と名づけられたらしい。

 清水坂の途中、妻恋神社に寄る。
 日本武尊が東征の際、三浦半島から房総へ渡るとき、暴風雨にみまわれた。妃の弟橘姫が海に身をなげたところ暴風雨はやみ、尊たちは助かった。それから湯島に滞在し、民衆が哀れに思い、二人を祭ったらしい。そのせいか、神社の前に2軒のラブホが。
 ここは「夢枕」を発売していたらしい。
 「一富士、二鷹、三なすび」というのは全て家康の故郷、駿府の名物ばかりで、江戸時代に成立した言葉らしい。(へぇ〜。)家康の体験によるものらしいけれど、そうして縁起の良い夢を決めて、それに合わせて福の神がくる良い夢を見せてもらおうという望みをもつようになり、枕の下に置く、縁起のいいものが書かれた紙を売ったのだそうな。

 町名の由来という看板がところどころに立っている。
 家康が駿府で亡くなり、家康に付いていた人は江戸へ帰され、広い土地(大縄地)を与えられたらしい。駿河から帰ったので、「駿河町」と言われたらしい。神田駿河町も、そうなのかね?

 湯島天神。
 菅公が祭られている。
 お参りし、御朱印をいただき、宝物館に入った。
 渡唐天神、牛乗天神等、天神にはいろいろなタイプがあることを知った。
 「天皇から賜ったけれど、左遷された今、この衣を見ながら天皇をお慕いしとります」という菅公の詩を下にした絵「恩賜の御衣」は、けっこう印象的だった。
 「東風吹かば〜」は左遷される日に作った歌だった。そうだよね、、、あれは都に居て詠んでいるんだよね、勘違いしていたよ・・・。
 階段の踊り場に、いろいろなタイプの天神さまの張りぼてがあった。かわいい!
 「あの置物、販売はしていないのですか?」
 「あ、あれは、ご好意で寄付していただいたものなので、あの、そういうものなので・・・」
 そんなことは初めて聞かれた、みたいな対応をされてしまったが、う〜ん、残念。これは大宰府に行かねばっ!(似たようなものが売っているかどうかは知らないけれど。)


 湯島の台地から御徒町方向への交通の便を考えて切り開かれた「切通坂」を歩いて、上野広小路駅へ。
 末広町駅から上野広小路駅まで、遠回りして一周した、という都心の神社探訪だった。
 案外、若いカップルが散歩していて、驚いた。
 とても楽しかった! そうね、ビタミン不足のように、歴史歩きが不足していたのね。


 おわり



別冊ナカジンの表紙へ

表紙のCONTENTSへ