兼山(森蘭丸)と岐阜(信長)2日目
2008年5月31日〜6月2日








2日目
可児→(JR太多線/高山線)→岐阜→西岐阜→岐阜→名古屋→東京


 昨日は森家三昧だったけれど、今日は殿三昧!と意気込む。
 しかし雨が降りそうで、これは1本早い電車で行って岐阜城はやっつけちゃおう、と思い、巻きの行動をとる。
 朝食を食べてすぐにチェックアウト。
 JR太多線・美濃太田から高山線で岐阜へ。山一つ超えてる、みたいな、そういう感じの路線で、途中、兼山のダムが見えたりしました。ボボボボボッと弱く走りだしたかと思えばビューと飛ばしている、不思議な電車で、非電化のようなので、ディーゼルなのでしょうか・・・? また新しい路線に乗れて、うれしい。
 山越えが終ったのか平な土地が見えてきたなぁ〜と車窓を眺めていると、こんもりモクモクとした山の形が。「もしやあれは写真や絵でよく見た稲葉山では?」と興奮。「頂に見えるのは岐阜城です、きっと!」と気分昂揚。あそこに殿がいたんだと思うと、そして岐阜城に行きたいという6年越しの夢が叶い、感慨深くなる。
 だって、旅のお供のるるぶは2002年版。
 岐阜に降り立ち、荷物をコインロッカーに入れ、路線バスに乗りました。

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 山に近づくとド緊張。

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 バス停に降り立ち、眺める岐阜城は、遠かった・・・。殿・・・遠いよ・・・。


 正式には登山をし、昔日の城攻めを体験すべきなのですが、小雨がぱらついていたし、疲労感あり、時間短縮のため、ショートカットさせていただく。
 月曜日というせいか、空いていて、動きやすい。

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 フロイスの記述に、信長の宮殿へ至る途中に「広い階段」を上る、とある。
 それがココでは、とされている。

 ロープウェイ乗り場までの見所はちゃんと押さえました。(居館跡とか、階段の遺構とか)

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 ロープウェイから長良川を眺める。

 降りてから頂上までは、プチトレッキング。
 天下大一の門、馬場跡(門跡からの唯一の平坦な土地。馬をつないだのであろう、と)、二の丸門を通り、グインと山をあがった場所に、秀吉の秀吉の千成瓢箪発祥の地!
 殿の聖地なのに、秀吉の旗が鮮やか・・・。

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 信長の配下となっていた秀吉は、蜂須賀小六や猟師の堀尾茂助など7名で岩戸口から稲葉山城まで潜入。薪小屋に火を放って、手柄をたてました。
 城兵を倒した槍先に、腰から下げていた瓢箪を結びつけ、勝鬨をあげたことが由来です。
 城攻めする秀吉の顔が見えました〜。
 右の写真、下は崖です。

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 撮影スポットがあり、そこからの一枚。
 そして頂上へ。資料館になっていて、くまなく見、頂上では殿目線を体験したのでした。

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 殿も眺めた、風景。同じ目線v
 確か、小牧山・木曽川方向、、、(ウロ覚え)。だから絶対に殿はこの方向を眺めたのです(断定)。
 岐阜城から眺めた印象は、山の在り方がおもしろかったです。ナカジにしてみれば、山は高いところで連なっているものという存在なのですが、岐阜は、おむすびのような三角形の山がポコポコポコポコ平地に置かれている、という感じ。そのひとつひとつの緑が深くて、実は立ち入るのは怖い雰囲気。連なるアルプスとはちょっと違う感じで怖い気がしました。
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 城の隣に資料館がある。天守閣から東の一段下がったところに郭があり、米・塩・味噌を備えておく蔵と、弓矢を備えた蔵が建っていただろう、という推測で、現在は資料館になっている。
 たぶん、殿は自ら蔵へ行ったことが、あると思います。その、殿目線v


 下山は違う道を、と来た道を戻るのではなく、標識通りに行ってみる。

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 ここは木が生い茂った、薄暗い、湿った一本道で、みるからに怪しい場所。そんなところに軍用井戸の遺跡。怪しすぎる〜。何かが出てきてもおかしくない。
 そして写真は、何回撮り直してもうまくいかず、なんで急に?と思う。だいたいここへ来る標識は小さいものだったし、そのせいか人の声はするけど誰も来ないし、「ねぇ、殿? 殿なの? 殿がわたしを呼んだの?」と画面を見ながらつぶやいていました。

 七間塀に沿って下りてくると、展望台・レストランが。
 せっかくなので殿っぽいものを何か食べたいなぁ〜と思いつつもメニューからチョイスできず、ソフトクリームを・・・。展望台から眺めながら、ちょっと休憩したのでした。

 ナカジ「峻険な山。緑深くて。そこでソフトクリームを食べていると、なんだか殿の包容力を感じますね〜」
 蘭丸「なにを? 殿が其方を抱くわけがないっ」
 ナカジ「えっ・・・」
 蘭丸「いや、殿はお心が広い方だから、気まぐれで其方を抱いたことがあるやもしれぬ。しかし、たとえ抱かれたとしても、一回や二回抱かれた其方に何がわかるのじゃっ!」
 ナカジ「抱擁、じゃなくてね・・・」
 蘭ちゃんのキャラ、ちょっと違くね?と思いながら・・・。

 ロープウェイで下山し、みやげ物屋をウロウロ。殿の画像付お菓子とか、殿のお酒、鮎の甘露煮だとかをゲットしたのでした。

 岐阜駅に戻り、JRで隣駅、西岐阜へ。
 立政寺(りゅうしょうじ)を探す。「駅のどっち側にあるか、なのよねぇ・・・」

 線路をはさむ形に街が広がっている。片方へ行ってみると街の全体図があり、立政寺の場所がわかったが、反対側だった・・・。階段をのぼっておりて、線路の反対側へ。
 岐阜は、街の地図がしっかりしているし、路線バスのあり方がわかりやすい。観光地であることを自身がよくわかっていらっしゃる感じ!
 ちなみに、行き先へ電話をして調べ尽くして旅をする、というよりも、だいたいこの辺にこれがあるという勘で動いていることが多いナカジ。それでいいと思っています。

 冷たい雨がシトシトと降る中、10分ほど歩くと寺が集中している区域に出くわした。その中で一際大きいお寺が立政寺。浄土宗西山派で、1353年ごろの建立され、美濃、尾張、伊勢、近江、信濃地方の浄土宗の中心的寺院だったそうな。開祖は智通光居。
 ここは最後の将軍義昭と信長様が、見合いした場所!!!!!

 1565(永禄8)年5月、十三代将軍・義輝が松永久秀に暗殺され、義輝の弟の一人が久秀に捕らえられました。その弟が細川藤孝に救出され、朝倉氏の庇護を受けました。この弟が義昭で、僧侶だったのですが、還俗します。そして、朝倉の力を得て上洛しようとしました。
 が、朝倉はウジウジしていてよくわからない。そんなとき、美濃・尾張でチャクチャクと力を伸ばしている信長に目をつけました(どこまでも他力本願)。信長は信長で自らの天下のために上洛のチャンスをうかがっていたわけで、しかし「上洛」という目的は見かけ上同じだったので、義昭は信長と好を通じようとしました。この恋の架け橋となったのが、細川藤孝と光秀。
 義昭は永禄11年7月22日に立政寺に入り、信長も7月27日には岐阜から立政寺に入り、二人は初顔合わせ。信長は、銭・馬・太刀などを贈ったのでした。
 そうして、義昭が信長のことを「パパ♪」なんて呼ぶくらいな蜜月時代となるのですが、それもそう長くは続かないのでした・・・。

 ムムッ、まるで馴れ初めから離縁まで、この二人、超ステレオタイプなカップルではないかっ!

 何かしらの記念碑はないのかしらん・・・?とウロウロすると、ジャジャーン!

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 「亀田山第十八告一灯恵林大和尚ノ永録十一年紀元一五六八年
 織田信長ハ足利義昭公ヲ越前州ヨリ富山ニ招キテ高居ト為ス
 足利五代将軍義昭公御座所 正法軒跡」

 最大級の感動を得た。
 来て良かった・・・と心底思った。
 2日間で最も濃い瞬間だった。
 やはり、殿が好きなの(ハート)、と思いました。


 どうやら裏から入っていたようで、表をみつけた。
 紫陽花の花がきれいでした。6月ですものね。殿を偲ぶ、良いお花です。

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 岐阜に戻る時に車窓から眺めた岐阜城。そこだけ雲に隠れてる・・・シャイな殿。

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 岐阜から名古屋へ。
 あれ?清洲を通るということは・・・清洲城が見える!ということでカメラをかまえたものの、シャッターチャンスをあやまった・・・。


 たぶん、殿はわたしに接近してきてくれていました。そう思える旅でした。





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