後北条VS上杉/川越


 さて、武将系サイト初参加の、史跡めぐりをする御付会。これまで、戦国時代に関するところは一人で廻ってきた。誰かと廻れるなんて、それだけで嬉しいことだ。
 本川越で10時に待ち合わせ。私を誘ってくださった忠之助さまは、目印にたこ焼きのマークがある旗を持っているから、とおっしゃっていた。どんな旗なのだろう、と思ったら、屋台にあるような赤い、まさにた こ焼き屋の旗で、大ウケ。少し前に到着してウロウロしていた私は、近くにいる男性が旗を出した瞬間に、「あ、忠之助さまだ!」と心の中で笑ってしまう。ものすごくわかりやすい旗だった・・・。
 そうして集まったメンバーは、最近通うようになった武将系サイトの管理人・上杉殿、忠之助さま、奥様のもこさま、刀剣修行中の純井さま、ナカジの友人薫子、そしてナカジ。
 本川越は、都内よりも寒い。若干北になるのだろうか。通勤圏になっているから、都内に遊びに行くのと同じ感覚でいたし、というか、だからこそ何かが違うなんてことは考えてもみなかったのだが、土地が違うのだ、ということを実感した。

 まず向かったのは、「喜多院」。家康から学識高いことを認められ徳川3代まで仕えた天海が、深く関係しているところだ。それゆえ天海の像があるが、やはり生々しい。私の希望としては、魔性の雰囲気があって、サラッとした髪の毛が隠れている感じが良いが・・・それはあくまで漫画だ。
 喜多院には、春日局化粧の間や、3代将軍家光ご誕生の間(とはいえ、実際に生まれたのは江戸城であって、部屋をそのまま川越に移したというもの)、五百羅漢像、東照宮などがある。
 本堂に向かい一人ずつお参りして、記念写真をとる。皆様デジカメを持っていらして、気軽に好きに撮っているのがうらやましい。パシャパシャ撮りながら、そしてそぞろ歩きながら、東照宮へ。
 日光東照宮、久能山東照宮とあわせて三大東照宮とされている。もしや、天海の呪法は、日光、久能山、川越の三角形に表されているのカモ、なんて、陰陽師好きは思ってみたりする。
 (記憶が間違っていなければ)ここは亡くなった家康公のご遺骸を移動させる際に三日間寄ったところとして、お堂がたっている。ここに、今、いらっしゃるわけではないが、「いた」ということはナニカが残っているはずで、冷たい風の中ににおいを探してみる・・・。
 春日局の間や家光誕生の間を見学するために、本堂の隣にある別棟へ行く。入るときに御朱印帳を預ける。
 畳や床の冷たさが、純井さんには耐え難く、私には心地よい。日曜日ということで大勢見学者がいるため、寂とした雰囲気ではない。紅葉が見られるベストビューポイントがあり、誰もが「うわーっ」と歓声をあげている。春日局の間も家光誕生の間も混雑していて、遠くからそっと覗くにとどめる。
 別棟を出て、導かれるように本堂へつながる橋を渡る。堂内では七五三の祈願をする一行がいる。御利益のおこぼれをもらうために、隣に正座する。顔をあげると、そこには不動明王の真言が! 真言といえば、(私としては)毘沙門天の真言だが、必死に書き写す。見慣れない、書きなれない文字なので、割ととまどう。
 不動明王といえば、大日如来(仏さまのトップ)の使者(だけど童子)として私たちの煩悩を断ち切るために奔走する。怖いお顔をしているけれど、だからこそ、実は私たちのために動いてくださっているのだ。真言を書き終えて、それを唱えながら不動明王の前で手をあわせる。
 御朱印帳を受け取り、五百羅漢像を拝む。
 こういう雰囲気、やはり好きなのだなぁと思う。そもそも日本人にとっての旅とは寺社仏閣を拝むことであり、その集客力に頼って様々な商業施設ができるようになったという話を聞いたことがある。私はやっぱり日本人の心をもっているのだな、と感心してみる。
 喜多院を出ると、すぐ目の前に「川越歴史博物館」がある。が、そこに入る前に腹ごしらえを、ということでちょっと歩いたところにある日本料理「鎌倉」に入る。(長野出身なのに)初めて、もりそばを食べた。しかも十割そば。いつもは山菜や卵などの具が入ったそばを食べていたのだ。そば湯も飲んで、一人、時代をトリップしてみる。
 昼食中、上杉殿がしきりに私に話しかけてくださっていた。有難いお心遣いに感謝・・・。
 喜多院の方へ戻り、歴史博物館へ入る。木枯らし紋次郎がまとっているようなかすりのマントや、古いそろばんなど、時代がかったものが売られていることに少々驚く。ここの館長と思われる年配の方の、川越、展示してある資料に対する思い入れがすごい。
 時代劇の時代考証は間違っていて、庶民にはたいした明りはなかったんだ。松やにを皿の上で燃やして明りにしていたんだ、とおっしゃっていた。
 そういえば、夏に長野県・松代で入った「あかり博物館」に、そんなようなものがあったかなぁと思い出そうとするが、最近頭に入ってきた新しい情報に追いやられていることに気づく。あー、能力の限界。
 3階にはいろいろな時代のものがあるが、気になったのは、鶏の頭部の土偶。弥生時代、鶏の頭をあんなにコケティッシュに土で作っただろうか・・・数々の縄文・弥生期の遺跡を見てきたが、あれはないゾ〜、と心の中で思ってしまった。最近作って置いちゃいました〜、という雰囲気なのだ。もこさんと大笑い。
 「伝 織田信長公使用兜」なんていうのもある。かなり怪しいが、やはり見入ってしまうし、まあ、おもしろいとは思う。
 ショーケースには、いくつかの刀剣がある。刀剣修行中の純井さまにいろいろ聞いてみる。
 「人を切った刀かどうか、わかります?」
 「これは・・・研いじゃってるのでわからないですね」
 私のくだらない質問にも、ものすごく丁寧にしっかり答えてくださって、申し訳なく思う。
 それから博物館を出て向かったのは、「富士見櫓跡」。川越城は平城だったので、敵の侵入等を見守るためにこの高台があったという。昔は富士山が見えたらしいが、今は木々で囲まれている。それ以前に、現代の空気、建物の有様では見えないかもしれない。富士山の方向をじっと見てみる、昔の人になった気分で・・・。
 高台を降りて向かったのは、「川越城本丸御殿」。歴史資料館のようなつくりだが、平城だったのだから、そういうふうに見えてもおかしくはない。
 大広間や詰所など、畳の部屋がたくさんある。
 ここではどんな会話がなされたのだろう・・・。
 着物で歩きたい気分になる。
 本丸御殿のすぐ近くに、「川越市立博物館」がある。川越の歴史がわかる資料館で、当り前だが、どこの町にも歴史はあるものだなと深く思った。知的好奇心がくすぐられて、面白かった。
 さて、寒風吹きすさぶ中、市役所まで歩く。そこには「大手門跡」の石碑がある。川越城の築城を命じられた太田道灌の像もある。
 そこからさらに歩くと、いよいよ「川越野戦場跡」。
 戦国時代初期、古河公方の足利氏、関東管領の山内上杉氏(上杉憲政)、扇谷上杉氏が争っていた。そこに割り込んできたのが北条氏。2代氏綱の代に武蔵に進出。3代氏康の代で川越へ進出している。
 1537年、扇谷上杉氏は氏綱に川越城をとられる。
 山内上杉氏は、それまで抗争相手となっていた足利氏、扇谷上杉氏と手を組み、8万という大軍で、川越城を奪回すべく攻めたのが1545年。
 そこへ駆けつけたのが氏康パパ(上杉に養子に出された三郎からみて)。1546年、夜襲で連合軍を破り、扇谷上杉氏の当主、上杉朝定を討ちとる。
 氏康パパがここにきたのだぁと、また、風の中ににおいを探す。
 においフェチな私としては、においこそ、その人の印で、記憶をよみがえらせたり、思い出させたりするものだと思っている。氏康パパはどんなにおいだったか・・・。

 落ち葉が舞い散る晩秋。太陽が顔を出さなかった日の夕暮れ時は、寂しい。シンとした野戦場跡に立つと、ここで散っていた敗者の血と涙の感情に触れたくなる。敗者の歴史は語られない。だからこそ、彼らを思いたいのだ。何かができるわけではないが。

 そして、本日最後の目的地、「菓子屋横丁」へ。
 駄菓子屋が並んでる! つい、買いたくなってしまう。さすがに川越、さつまいもを使った菓子が多い。
 もこさんにおせんべいをいただき、上杉殿から芋ドーナツをいただく。どちらもおいしくて、歩いた後の甘いものは体のすみずみにゆきわたる。もこさんからはおみやげに林檎までいただいてしまった。行軍中、私たちのために持っていてくださったのかと思うと、味わって食べなければ・・・。

 皆様の優しさに抱かれての御付会。感謝すると共に、ナカジン武士道はいよいよ加速していくだろう気配を感じた。

fin


別冊ナカジンの表紙へ
表紙のCONTENTSへ