忍城を歩く もののふ戦国現地セミナー
〜フィールドワークはスバラシイ!〜
2009年2月11日








 ベストセラーとなった「のぼうの城」の舞台を歩く戦国ツアーに参加しました。

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*カメラを忘れたので、写真はわかりずらいと思います。

0001  武田菱。

 お友達が忍城のお祭に参加していたり、関連する山中城のお祭に毎年出ているお友達もいたり、、、で、前から気になっているお城でした。
 「のぼうの城」との出会いは、とあるビジネスメルマガ。上司としてののうぼう様評価が書かれていて、戦国好きのワタシは読む本ダワ、と思っていました。が、モタモタしているうちに、CMで宣伝されるは、いろいろなところで取り上げられるはで、読む気が失せ(天邪鬼です)、結局読まずに参加。

 案内してくださるのは、藤井尚夫先生。歴史家の方ではありません! 工業デザイナーの方で、作品を挙げれば「へぇ〜」と思うようなお仕事をしていらっしゃる。辞書やムック本等に戦国時代のお城の図などを描いているうちに、こちらもご専門になってしまった、ということのようです。27歳のときにはとある有名辞典の城郭に関するものを全て描いていらっしゃるというのだから、スゴすぎます。


 「のぼうの城」の舞台である忍城は、秀吉の小田原攻めの際に一緒に攻められた、湿地帯にある平城です。
 高速を下りると、山が見えない、平らな水田地帯が広がっていました。湿地帯を本格的な水田にしたのは江戸時代になってから、治水事業が行えるようになってからで、それ以前の戦国時代はお米はとれず、むしろ畑だったそうです。


 まずは行田市郷土博物館を見学しました。
 博物館などを見学し、概略を把握したところで実地にすすむのが、順番としては良いようです。
 古文書や文献などを調べる机上の学問では、歴史は限界があるようです。
 例えば、歴史小説などの描写に、「●●口から出て敵方と戦う」とか「●●口を守備した」といった表現がありますが、大抵は間違って解釈されているそうです。
 今でいう「新宿西口」の口とは意味が違い、●●口という場合、とても広い、ある方面のことを指すそうです。ということで、「●●城跡で、××口の一部が発見された」なんて表現は、本当はありえないそうです。
 そういったことは机上の学問ではわからず、嘘をつかない地形や遺物を見、多角的に戦場を把握することでわかるのだそうです。実地研究、フィールドワークがいかに大切か、藤井先生は強くおっしゃっていました。
 確かに!と思いました。ワタシはフィールドワーク大好きでやっていますが、知識が伴っていないのが痛いところ・・・。

 3階の窓からは、後で行く古墳群の方を眺めました。(石田三成が、古墳から城を見たので、そのお返し、みたいに。)

 個人見学後に集合した際、「ナカジさん、永禄通宝、見ました?」と言われ、「えっ、そんなものがありまして???」と驚くワタシ。銭に関するコーナーがあったらしく、ま〜ったく通った記憶がないのでした・・・。

 いよいよフィールドワーク。

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 忍城の昔からの土塁は、諏訪曲輪の一部にあるのみです。そして、その諏訪曲輪の延長線上に、昔の水堀の名残が。民家の裏は波打ち際、といった風情で、カッパがいそうな、沼のような場所でした。

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 草ムラになっている昔ながらの土塁の上を散策し(とても散策なんて上品な言葉では表せられないけれど(笑))、本丸を囲む形で歩き、駐車場へ戻りました。

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0001  昔ながらの水堀が残っています。

 水城公園。
 三重櫓があったと思われる高台に立ち、三成が作った石田堤(忍城を水攻めにする際に築いた堤防)の方向を眺めました。
 お友達の「攻めてくる様子が見えるわけでしょう。その覚悟って、今では考えられないだろうな」という発想に、イイナと関心しました。
 ここから高源寺へ。
 「のぼうの城」に出る、「丹波」のお墓がありました。
 開基の丹波利英のお墓もありましたが、、、、小説に出てくる「丹波」がどんな人なのかがわからないので、開基と名字が同じことにちょっと謎ではあります。
 そこから清善寺への道中、表札には珍しい名字ばかりが。
 清善寺は、これも小説に出てくるメイリョウ和尚のお墓があるそうで、成田15代親泰がたてています。16代長泰によって再興されますが、この長泰の弟の子供が、のぼう様なのだそうで・・・。


 それからお昼です。
 行田市は蔵の町らしく、しかし店舗・家として使用している唯一のところなのだとか。
 事前に聞いていたデフォルトメニューは「そば(大盛)+天ぷら+ゼリーフライ」。
 ゼリーフライ????? 
 饅頭天ぷらとか、アイスの天ぷらとか、そういうことかしらね、とゼリーに衣をつけてコロッケのように揚げてあるのを想像。
 店内に入ると、団体用に天ぷらとそばつゆがセットされていました。
 ゼリーフライが何者かがわからないので、かきあげやさつまいもの天ぷらを見て『これ、ゼリーフライじゃないよね・・・?』と思ったり。
 やがてそばの大盛がきました。
 けっこうなボリュームで、そばつゆの量とそばの量が合ってないワ、とか、そばの味がなかなか薄いわねぇ、とか、水っぽさがちょっとあるわねぇ、とか、長野で育っているので余計なことを思いながら、平らげました♪
 そして、そばを食べ終えたころにデザートのように登場したゼリーフライ。

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 衣のついていないポテトコロッケ、でした。
 日露戦争の頃、中国から伝わった「野菜まんじゅう」にルーツがあるそうです。じゃがいもに、ねぎやにんじん、おからを入れて、焼いたもの。ソースがついているので、その香とモチモチ感が大人から子供まで人気なのだそうです。
 小判型なため、「銭フライ」と言っていたそうですが、なまって「ゼリーフライ」になったそうです。(紛らわしい・・・。jellyのかけらもありませんでした、、、。)
 ゼリーフライの奥に写っている(推定)そば粉と小麦粉で作られたクラッカーっぽい揚げ煎は、手が止まらないくらいに、おいしかったです♪
 オモシロイ、地域ジャンクフードをいただきました。


 昼食後は、さきたま古墳群へ。
 木が枯れているため、古墳の形がよくみえます。城址とか古墳とか、フィールドワークは木が茂らない冬が良いようです。夏は蚊や蛇も危ないですからね。
 まず古墳群の博物館へすすむと「臨時休業」の張り紙が。

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 みな、一様にショックで笑い、写真撮りまくり(笑)。
 回れ右をして戻る形で古墳群へ向かい、その中の「丸墓山古墳」へ上りました。
 その当時も古墳であるという認識はあったそうですが、石田三成がここを本陣にし、忍城攻めをしていたそうです。
 この古墳の後ろ側(?)から、石田堤は伸びていて、石田堤を築くために、古墳を削っているのだそうです(!!!)。なのに"古墳は大切に"という看板に、全員で爆笑。

0001  ちょっとくぼんだところが、削られた跡です。

 ここからバスで移動して、石田堤がしっかり残っている場所へ。

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 自然堤防の上に作った、石田堤。

 川を渡って、新幹線のガード下、鴻巣市側の石田堤へ。鴻巣市が管理する石田堤は、かなり整備されていて、堤の断面や、その断面の上で、最も高さが残っている石田堤を眺めました。

0001  最も高い堤。この断面が、見られます。

 堤防を築くって、すごいな、と思います。インフラ、ですよね・・・。秀吉はすぐに城を築いたし、堤防を作れなんて指示もしてしまうし、この人のもっているインフラ技術知識はスゴイのではないか、、、と思います。

 そしていよいよ最後のフィールドワーク地、松山城。
 川越合戦で上杉朝定が北条に負けて、この城を放棄しました。それから大田資正が奪うけれど、武田・北条連合軍が攻略。秀吉が攻撃し、小田原包囲から約半月後に、松山城は堕ちました。
 山城で、堀切が美しく残っています。

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 本丸と二の丸の間にある堀切は、ホント、転がりたいくらいに気持ちのいい眺めでした。


 解説付きでめぐると、きっとやり過ごしてしまうことを教えていただけて、ありがたいものです。
 "石田堤"を歩いていると歴史は綿々と続いているのだなということを実感します。その過去から、ワタシたちは何を学んでいくのでしょう・・・? 過去は繰り返される、と言いますけれど。
 充実した、一戦国時代の足跡を探る旅、でした。





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