比叡山延暦寺攻め、
古代から天下布武へ綿々とつづく歴史
2010年1月3日








 比叡山延暦寺へ初詣として出かけましたが、いえいえ、殿が攻めた場所を確認し、殿の天下布武の礎となった近江国を歩いたのでした。
 出発はJR比叡山坂本駅。比叡山ケーブルの駅まで、日吉大社の表参道となっている一本道を20分くらい歩きます。

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 日吉大社を超えると登山口があります。ここから登れば、まさに叡山攻め、ですね。
 ケーブル内からは琵琶湖の眺めを楽しみ、途中駅には紀貫之のお墓があるので「土佐日記」を思い出し、

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 焼き討ちで亡くなった方を供養する石仏群(左手)を前にお参りしました。

 1572年(元亀2)、信長は比叡山の焼き討ちを行いました。(比叡山側では"元亀の争乱"と呼んでいます。)
 浅井・朝倉を応援気味な延暦寺だったので、「(既に没収していた)寺の土地は返還するから、連合軍への支援はやめてくれ。僧の身で一方への肩入れができないのなら中立の立場をとってくれ。そうじゃないなら、焼き討ちしちゃうよ」と忠告をしましたが、延暦寺は連合軍に肩入れしたのです。
 信長は、忠告通り、坂本の町から火をつけ、延暦寺焼き討ちを行います。
 その焼き討ち、信長が初めて行った唯一の悪の権化のように言われていますが、それまでにも2回、似たようなことはあったのです。
 1.1433年、6代将軍義教への反抗から自ら火を放つ。(この義教と叡山との応酬劇がスゴイ・・・。)
 2.1499年、細川政元が、亡命中の足利義稙の入京に協力した叡山を攻撃した時。
 いずれも根本中堂が燃えています。根本中堂は比叡山延暦寺の中心的な存在で、千二百年の法灯を燃やし続けているのではありますが。
 後白河法皇が「鴨川の水と賽の目と山法師(叡山の坊主)は思い通りにはならない」と嘆いていた通り、比叡山のお坊さんたちに困っていた人たちは歴史上、多いわけです。信長も、寺院が武装して勢力を持つこと、また、贅沢と女におぼれているといわれていた様を嫌っていたわけです。
 焼き討ちのようなことがあり、また、比叡山内も荒れていたためか、信長が焼き討ちをする頃には、建物がそれほど残っていなかったそうです。
 当時存在したとされるのは、
 ・大講堂
 ・文殊楼
 ・大書院
 (いずれも東塔)だそうです。
 大書院は皇族の方が立ち寄るような場所で、そのためか立入禁止になっていました。
 文殊楼は、建物内二階がおもしろいです。芸術と学びの神様なので、お参りしました。


 東塔から西塔・釈迦堂に向かった手前にある石碑。
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 どなたかお上人さまを供養する石碑だったと思うのですが・・・忘れてしまいました。ただ、「元亀の争乱で壊され」とあり、反応してしまいました・・・。


 現在、西塔の釈迦堂裏にある弥勒石仏。
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 以前は弥勒堂近くにあったそうですが、光背の破損は、焼き討ちのときのもののようです。

 そして、唯一、焼き討ちを免れたといわれるのが、瑠璃堂。薬師瑠璃光如来が安置されているそうです。
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 西塔一帯から10分くらい歩いたところ、『そりゃ、火を免れるわな・・・』という場所にあります。


 焼き討ちの際、比叡山の仏像や書物を避難させるのに秀吉が働いたようですし、町の復興には光秀も力を入れたようです。信長の死後は秀吉や家康・家光が寺社を再建し、天海僧正も復興に力を入れ、とその焼き討ちが非道と言われた程が想像されますね。


 横川地区には行っていませんし、西塔地区でも少し離れた青龍寺(法然が修行した寺)まではいけませんでしたし・・・比叡山は広いです。
 宗教がどうということではなくて、「一隅を照らす」という最澄の教えには共感します。それだけでなく、他にもいろいろな教えが立て看板にありましたけれど、どれも共感します。
 一隅を照らす一人ひとりが大切にされる存在で、誰かにとって大切な存在であること、それを忘れない一年でありたいです。

 最終のケーブルで下山し、サーッとカーテンが引かれるかのように暗くなっていく"早さ"を追いかけるように、急いで日吉大社内を歩きました。
 そして、宿泊地の大津へ。
 大津。
 殿が義昭をたてて上洛し、義昭のための御殿を作りました。そのお礼に、義昭は殿を副将軍にしようとしますが、殿は断り続け、「その代わり、大津を儂の支配下にしたい」と申し出ます。その願いは通るわけですが、殿が欲しがった、一度でも治めた土地・大津に宿泊・・・はふ〜ん・・・いいですね☆

 チェックイン後、駅から少し歩いて京阪線で移動し、大谷駅近くの日本一のうなぎ「かねよ」で夜ご飯。
 そこは、山城国と近江国の国境で逢坂の関があった、昔から人々の出会いと別れが重ねられたきた場所。畿内の北限、逢うのに人が別れる関という感覚が好まれ、歌に詠まれてきました。蝉丸が「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関」と、清少納言が「夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」と詠んでいます。貫之も「逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒」と。
 そんな王朝文化を感じる場所に立てて、感動。

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 ジャーンッ。
 って、暗くて石碑の文字が読めませんね、、、。


 駅近のホテルは、(お部屋によるかもしれませんが)入口からの通路が広く、明るく、サービス朝食がおいしく、満足なビジネスホテルでした。


 2日目。
 改めて比叡山の門前町、坂本へ出かけ、天海僧正の御廟と、明智光秀一族のお墓がある西教寺へ。

 御廟近くには、十三石仏があります。
 これは、六角承禎(義堅)が母の供養にたてた阿弥陀如来で、それを天海がこの地に移したのだそうです。供養にたてたものだからその土地にあった方が良かったんじゃない?と思うのですが・・・。
 義堅は1552年に家督を継ぎ、観音寺城主となりました。
 1570年6月野洲河原の戦いでは勝家・佐久間軍に敗れ、8月の野田・福島の戦いでは浅井・朝倉方について勝利し、姉川の戦いへとつながっていきます。

 御廟から西教寺へは、日吉大社内の山辺の道を通り、琵琶湖を眺めながら、20分くらい歩きます。
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 西教寺は焼き討ち時に焼失していますが、その再興に光秀が尽力しました。坂本城を築城し、坂本の町全体の復興にも力を注ぎました。それ以来、光秀との縁深く、光秀死後は厚く弔うようになったそうです。

 光秀のお墓。
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 明智一族のお墓。
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 お昼を食べて、三井寺へ。
 駅を降りると、琵琶湖の水を京都へ渡す施設がありました。明治に作られた施設で建築物としておもしろいのですが、今でも京都の生活用水を送っています。
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 写真奥の琵琶湖から、用水路が手前にきて、三井寺の下を通って、京都へ行きます。
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 三井寺には、天智・天武・持統の三天皇の産湯に使われた井戸(↓↓)があります。
 いきなり古代で、感動です!
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 弁慶の引きずり鐘。
 三井寺と比叡山が争った際に、弁慶が奪って比叡山に引きずり上げると、「三井へ帰りたい」と鐘が泣き、怒った弁慶は、「そんなに帰りたいなら帰れぇーっ!」と谷に鐘を投げてしまったのだそうな。・・・スゴイ話ですねぇ。
 その時の傷がそこここに。
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 隣には、弁慶たち僧兵が食べたご飯の釜が。
 この弁慶の力を名物にしたのが、「三井寺力餅」です。緑がかったきなこたっぷりな、安倍川餅です。

 複数の時代のものが一箇所にある、というのが、ロマンですよね。


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 どうでもいいですが、越後新四国八十八箇所って、もう、意味がわかりません。


 それから石山寺へ。
 きわどいところに立つ、舞台造りの本堂。サイドからの眺めです。
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 本堂並びに、紫式部が源氏物語を書いたと伝わるお部屋。
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 これも目当てだったのですが、あまりに現代チックな紫式部がいて、ちょっとガッカリ。雰囲気が削られてしまっていますT-T。そして、お寺で書いてたのぉ???とちょっと残念な気持ちが。一部を書いた、ということなのでしょうけれど・・・ワタシ的には、書院造りの女房のお部屋でサラサラと書いていたというのが良かったりします。

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 石山寺の前を流れる瀬田川のしじみが名物で、しじみのオブジェ。オモロイ(笑)。
 囲われていますが、上りたくなる気持ちがわかります。カーブしているところを触りたいですし。どれくらいバランスよく作られてるんでしょ(笑)?


 石山寺駅の隣駅が唐橋駅。
 瀬田の唐橋、です!
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 昔から魑魅魍魎が住まう、唐橋を制するは天下を制する、と言われた場所です。7〜8年前に新聞記事で読んでから、訪ねたかった場所。切り抜きを持ち続けていますv(T-T)v
 もっと趣があるかと思ったのですが(←期待し過ぎ^^;)、そりゃ、車が通る場所ですからね、そうもいかないですね。
 壬申の乱の折には、大友皇子が瀬田橋の戦いに敗れています。
 藤原仲麻呂軍が近江に入るのを防ぐため、孝謙天皇が瀬田橋を焼いています。
 義経との戦いで、木曾義仲が討ち死にしています。
 承久の乱で、戦乱の場所となっています。
 本能寺の変で、瀬田城主が橋を焼き、明智光秀の安土城進撃を一時的に阻止しています。
 俵藤太(藤原秀衡)がムカデ退治をして、そのお礼に橋下にある竜宮城に連れていかれています。この時のみやげ物の一つが、三井寺の弁慶が引きずった鐘だったそうです。(なんか、つながった感^^;)
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 弓を射てムカデ退治をした秀衡の気分を味わうワタシ。
 この下に竜宮城があるのねぇ・・・としばし橋を眺めていました。


 京阪大津線を乗りまくる一日の中で、宇佐山を撮るタイミングをはかっていました。

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 たぶん、これが宇佐山。近江神宮駅と南滋賀駅との間。
 ここは志賀の陣の折、蘭丸パパが討ち死にした場所です。ここをとられたら都を取られると、対浅井・朝倉の最重要防衛拠点となっていた場所です。
 ここで頑張った人たちがいるんだ・・・と想いを馳せます。


 3日め。

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 彦根城。(なんとなくテンション低いワタシ・・・。)
 ここの博物館は徳川美術館と似ていて、紙資料が豊富で、良い展示でした。同じ勝ち組のあり方として、似るのでしょうか。

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 代々、兜の前にお餅を置いて新年を迎え、11日に鏡開きをするのだそうです。
 テンション低かったワタシですが、この兜の本物を見られたのは、ちょっと感動でした。レプリカをいろいろなところで見ていたので。


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 三重櫓。
 小谷城天守を持ってきたと伝えられている、と入口の立て札にはありましたが、櫓内の説明書きには、「発掘調査ではその痕跡はなかった」とありました・・・。


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 佐和山城。
 石田三成の居城があった山ですが、それよりも徳川方の目線でいろいろ語られていた気が。まあ、井伊の陣地ですしね。





 帰り、彦根から米原まで普通電車で移動しましたが、それは彦根城天守から眺めていた風景の中を走るということで、感激でした。右手に佐和山城があり(いまどき珍しく、「佐和山城跡」と白い看板があります)、左手にある山との合間の平地を電車は走り、左手後方に彦根城が見え、前方には虹が見え(みぞれと晴れ間が交互にあった寒いお天気でしたので)、ステキな風景に囲われた、幸先いい旅の締めくくりとなりました。

 琵琶湖周辺は、古代から戦国まで、史跡が豊富な場所です。一箇所に、複数時代の史跡があったりします。都へ通じる重要な場所であり、東国と畿内とを分ける場所であり、殿が近江をとりたかった理由がよくわかった旅でした。
 京都からJRで10分程度で移動できる大津を、今後は関西方面史跡巡りの拠点にしようと、思いました。





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