武田家の栄光と滅亡
もののふ戦国現地セミナー
2010年2月11日








 もののふ企画のフィールドワーク、第4回。武田家の栄光と滅亡ということで、甲府へ。
 恒例の、藤井尚夫先生による車中講義は興味深いことばかり。それを吸収しきれないナカジでありました。
 以下、とりとめないメモを写真ナシでお送りします。


 中央高速を進む、進む。
 小仏トンネル手前は、右に八王子城、左に高尾山、左下に甲州街道という立地。
 甲州街道とはいえ、武蔵の国と甲州の間には相模の国があり、武蔵、相模、そして甲州へと入る。それぞれの国堺は分水嶺になっているが、これは軍事境界線とは同一ではない。
 八王子城は、北条との軍事境界を守る城だった。

 相模湖に、勝頼橋というつり橋がある。集落の名が勝頼といい、信玄が何かの戦いで撤退するときに通った集落のよう。

 談合坂SAの先、右手に、岩殿山がある。
 小山田氏はそこに城を築き、治めた地を「郡内」と表したため、「郡内」と言われている。笹子峠から西は武田家が治めていたが、群内は小山田氏が治めていたのだ。
 勝頼が逃げようとした場所であり、しかし小山田氏の寝返りにあい、岩殿山へ入れず、天目山へ引き返した形になるらしい。その寝返りの話が、ヒドい話というか・・・気の毒な気持ちになってしまった。

 甲府への道は、戦国時代からの名残がたくさんあり、現在にも息づいているというか、ちょっと知っていると(気づけば)日本中どこでも戦国時代にタイムスリップでき、当時の地理感を体感できることがよくわかった。
 八王子城の尾根に北条軍が(今も)いるかもしれないとか、ココに武者がいたんだ、ということがリアルに感じられる。


 まずは甲府城へ。
 浅野長政が作った城で、江戸時代には天領になり、甲府金番が置かれた。しかし、金番は左遷の場となっていた。
 軒を支える造りに感じ入った稲荷櫓や、東にある山から見下ろされることを警戒して、一段高い土塁になっているなど、見所いっぱい。

 天守台の石垣は忠実に復元されているよう。ゆるやかなラインがステキ。
 天守まで攻められても戦えるような、カギ型のような作りになっていた。

 礎石が3つあり、これは櫓門があった証なのだそう。櫓門周りの石垣の石が大きく、「立派なのは秀吉に近い考え方」なのだそうで、浅野長政の時代に作ったものと推定されるらしい。
 石垣の作り方にも、時代性、というよりも統治している人柄が表われるのかっ!ととても印象に残った。


 お昼は、甲府駅前の『小作』でほうとうをいただく。
 じゃがいも、里芋、ニンジン、しいたけ、ごぼう、ねぎなど、野菜がいっぱいで身体に優しい。大きさの違う野菜に均一に火がとおっていて、なおかつ柔らかいというのが、実はスゴいことだと思う。


 御牧(みまき)という、官が認めた牧場が3つ、甲斐にはあったそう。お米がとれないので、代わりに馬を納めていたのだとか。聖徳太子が乗っていた馬が、甲斐の馬だそう。
 だから、ほうとうやすいとんのような、粉をこねた主食が食べられたのだろうか。


 お昼を食べた後、躑躅ヶ崎館へ。
 ここで信玄が生まれたのではなく、要害山城で生まれた説が現在は強いようで、山頂には碑があるらしい。
 甲府駅から城下町をバスであがっていき、梅翁曲輪、西曲輪、味噌曲輪、本丸、と歩いた。
 梅翁曲輪は、武田神社より南にあたる住宅地に広がっていて、一人で来たら絶対に見落とす。棚田のように、梅翁曲輪が広がっていたが、土塁の跡ということなのだろうか。

 鎌倉時代から明治時代期における日本の馬の体格というものは実はわかっていないのだけれど、躑躅ヶ崎の発掘で、ほぼ一頭分の馬の骨が見つかったらしい。
 この骨が見つかったことにより、戦国時代の馬は、奈良の鹿のような姿をした馬であったことがわかった。
 肩甲骨が発達していて、ということは、前足の筋肉が強いことが意味し、坂道を下りる力がすごかったことを表している。短足、胴長で、山道を得意とする、ドラマなどに出てくる格好いい姿とはおよそ違う姿らしい。
 蒙古馬がこれに近いようだが、これまで、リアルな騎馬武者の実写化に成功した人はいない。


 その後、勝頼が築いた新府城へ。
 本城は基本的な守りのみで、堅固な作りにはなっていない。城壁を越えても虎口は突破されない、という造りなので、多くは虎口が戦闘の場所となったようだ。
 本丸の四方が崩れているが、これは(石垣の場合も、土塁の場合も)後に入った人に徹底して壊された、ということを意味するらしく、「入口があったということではない」と巷に出ているものに辛口評価(笑)。でも、これがないと藤井先生じゃない(笑)!
 冷たい雨が降る中の登り下りで、特に下り、すべる方が続出。
 勝頼の霊所もあることから、ちょっといたずらされたのかもしれない。


 そして最後の訪問地、天目山景徳院へ。
 どういうロジックで滅んでゆくかを藤井先生流に分析。藤井先生の切り口はワタシはとても好きで、なるほど、と感心しきり。
 長篠の戦い後、武田家が滅ぶまで7年はある。これは、この頃の代替わりにも匹敵する時間であり、復活には充分な時間だったと思われる。
 また、長篠の前後では、領地がほとんど変化していない。
 長篠の損害のカバーに無理をしたと思われるが、その損害は勝者にもあるものである。
 つまり、やるべきことをやるには充分な時間があったはずだし、人的損害も代替わりのような時間があり、本当は充分にできたはず。  少なくとも高天神城が落城する日までは、武田家は大大名であったといえる。  ではなぜ崩壊が進んだか。
 当時、味方の城が囲まれたときに大将は後詰をして助けることになっているが、高天神城が囲われたとき、勝頼は後詰をしなかった。それには別のストーリーをつくっていたのだが、常識を変えるインパクトがあるストーリーにはなっていなかったのだ。結果、大将への信頼はなくなり、内部崩壊を招いた。
 また、外交の失敗もある。
 信玄は、実は信長と同盟関係を結んでおり、敵対関係になったのは最後の数年くらいなのだ。しかしこの頃の武田家は上杉景勝としか同盟がなかった。その景勝も、御舘の乱後で兵力が弱っていたため、援軍を積極的に向けることもしがたい。
 徳川、北条とうまく外交していたら、兵は借りられなくても、信長に対して牽制できたかもしれない。
 木曽の離反が直接的な崩壊の原因になったが、このように内部崩壊と外交の失敗で、崩壊していったのだ。

 どんな組織も最後はこの武田家のような状況になるではないかと、人は歴史から学べると思った。

 勝頼は菩提寺である天目山栖雲寺を目指していたが、たどり着けず、現在景徳院がある場所で自刃した。勝頼と信勝の辞世の句があるが、勝頼の句は穏やかで、むしろ信勝の方に悔しさがにじみ出ている印象を持った。





 景徳院では冷たい雨が一段と強く降り、また、手足が本当に冷えきったために、悲しみを背負ってしまう気持ちになった。
 躑躅ヶ崎は風水的にもスバラシイ立地で、(新府城をつくることで)それを捨てた勝頼はおろかであると評されている。この時、既に滅亡は始まったのだろうし、寝返りにあい、また、賎ヶ岳の合戦や山崎の合戦のように大規模な合戦を行うこともなく、追い詰められるように死んでいった最後は哀れで、かわいそうな気持ちになる。
 でも、勝頼がいたから今がある、これまで生きてきた全ての人が、今という時間をつくっているのだ。





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