上杉VS武田/川中島


 上杉+武田づいた週末。
 土曜日の午前中、長野市より北部にある信濃町というところで過ごした。そこから眺める妙高、飯綱、黒姫といった山々が美しい。たしか、まだらおと戸隠を加えて「北信五岳」と言われのだと思う。が、それ以上は武士道にはあまり関係がないので省くとして・・・。
 午後、信濃町付近から高速に乗って向かったのは、妻女山。川中島の戦いの際、上杉が布陣したところだ。
 千曲川沿いの国道403号から長野電鉄線の踏み切りを渡り、高速道路のトンネルが口を開いている山を上っていく。(若干「ヲタク道」とかぶる。ミラージュにあった記述通りの光景を目の前にして、一人、興奮する。)
 しばらくクネクネと山道を上ると、広場のような場所があり、お社や、皇太子殿下(現在の天皇陛下)が植えた木があったりする。この時期、大量の落ち葉で土が覆われている。山の頂というのか、端っこというのか、つき出た場所に櫓のように組んだ足場があり、その階段を上がっていくと、展望台になっている。
 なんて見晴らしがいいんだ!
 ここからなら、戦況が手にとるようにわかっただろう・・・。
 眼下には畑が広がり、今、長芋の収穫作業が行われている。枯れた蔓を燃やす煙が、あがっている。その昔、ここで死んだ人たちに、この煙は届いているのかもしれない。
 解説板には、右の方には武田方の海津城、左先方に茶臼山、武田方の武将(名前はど忘れ。後でわかるでしょう)の墓がある、とある。
 どこか寂しい晩秋の午後、「鞭声粛々 夜河を渡る」という雰囲気はないが、謙信になった気分で、しばし立たずむ・・・。
 さて、妻女山を下りて向かったのは、大室(おおむろ)古墳群。5〜8世紀頃の古墳がまとまってあるところだ。うっそうと繁った木々の間に細い山道があり、その山道を車は進むが、飛びだした枝が車を傷つける。
 そこここに古墳がある!
 なんなんだ、この古墳の数は!
 山道のまわりに古墳ができたのか、古墳を縫うようにして山道を造ったのか・・・とにかく古墳だらけ。
 薄暗い、古墳だらけの山の中に入れば、わかる人にはわかるのだろうけれど、私には第六感はないので、別に気持ち悪くなったりはしないが、好奇心はわく。プリン型の山がいくつもそこかしこにあって、横穴があいていて盗掘されている、なんて風景は不思議な気持ちになる。
 ここに300から400の古墳が作られたそうだ。300〜400年間に300〜400ということは、一年で300人〜400人がなくなり、大室まで運ばれたことになる。古墳を作って葬られるくらいだから、ある程度、位はあった人だ。そういう人が年間300〜400人も運ばれてくるということは、大室近辺だけではなく、遠方からも運ばれてきたことにならないだろうか。とても広い地域感覚があったのだなぁと推定され、おもしろい。5世紀の人たちは、どういう生活圏を持っていたのだろうか・・・。
 少し不気味な(魅惑的な?)古墳群のある山を下り、向かうは川中島古戦場。千曲川を渡って、市街地の方へ車を走らせる。
 ずっと前にきた時の記憶では、馬上の謙信と座っている信玄とが向かいあう銅像があるだけだったが、首塚や神社など、立て札付きのランドマークがたくさんある、適度な広さの史跡公園だったのだ。
 毘沙門天の「毘」や「龍」の旗、「風林火山」の旗がたなびいている。
 毘沙門天は、謙信が信仰した。戦場に、毘沙門天と共にあり、そのご加護の元、勇往邁進した勇気のしるし、だそうだ。
 「龍」は乱れ龍のことで、突撃用軍旗。永禄四年の戦いも、この旗で火ぶたがきられたらしい。
 風林火山はよく知られたアレ。孫子の一節で、紺色の絹布に金泥で書くものらしい。「疾きこと風のごとく、徐かなること林のごとく、侵掠すること矢の如く、動かざること山の如し」。かっこいー。
 首塚は、武田方の高坂弾正昌信が、戦場で死んだ人を敵味方の区別なく葬った塚。そのお礼として謙信は、海のない武田方に塩を贈ったのだ。その塩の道は糸魚川沿い(国道の旧道だったか)にある。
 翌日、再び千曲川を渡り、高坂弾正昌信の墓がある明徳寺へ行く。
 松代の中心部から少し離れたところにあるため、真田宝物館に寄って明徳寺への行き方を聞き、車を走らせる。ここかな?という勘はよく働き、小学校の裏にある坂を登ると、明徳寺の案内がある。
 立派なお寺だ・・・。山の上にある荒れたお寺かな、なんて思っていたら、全然違う。大きな建物がいくつかあるし、観音さまのようなお像がいくつか雨ざらしにはなっているが、ある。高坂ってば、、、なんて思ってしまった・・・。(この辺、ヲタク道。)
 お墓の前で手を合わせる、
 「あなたは今ものすごい活躍をしていますよ、とある小説で。とても格好よく描かれていて、でも・・・ちょっとムチャクチャッ」。
 山門からは、雪のアルプスの山並を少しだけ眺めることができる。
 次に向かったのは、海津城。築城最中だ。夏に来た時には、土地全体が白い囲いで覆われていたが、今は、城の形(平城)はできあがっていて、まもなく完成するといったところだろうか。
 まだ新しい、茶色い城門が閉じてはいるが、馬を駆っていけば開きそう!
 「ハイヤァ〜ッ! 殿ぉ〜〜〜っ! ○○○○、ただいま参上つかまつりましてござりますぅ〜」
 ナカジの空想・・・。
 となりにいる母が「本当に変わった子ねぇ」と笑っている。
 あなたの子ですって。
 遠くの方から城の廻りを眺めてみると、城址公園として整えられる以前からあった石碑が見える。築城前まで、まっさらな土地に石碑があっただけなのだ。昔からずっと残っているものはなさそうで、悲しい限りだが、海津城再築城を思いたってくれただけでも有難いと思わなければならぬか・・・。
 さて、ナカジの戦国時代にも終わりを告げなければならない。千曲川を渡り、市街地へ戻る。長野駅周辺で買い物をして、ティータイムを過ごす。東京へ帰る電車の時間まではまだ余裕があることがわかり、どうしようかと思案。
 そうだ、(武田信玄の弟の墓がある)典厩寺へ行こう!
 またあそこまで行くのぉ・・・?と母は少し疲れた様子。
 大丈夫、典厩寺は千曲川の橋の手前、市街地側じゃん!
 う〜ん、、、。
 と話しているうちに、お茶とスイーツが体の隅々までゆき渡り、気だるくなってしまう。結果、今回の戦国時代はここで幕を閉じることになる。長野は今後も何回となく行くところなので。
 それにしても、妙に興奮する、とても充実した二日間だったことは、言うまでもない。
 生きた心地、というのは、こういうことなのだろうか。

fin


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