「小田原攻め 箱根越えの戦場を踏破する」
もののふ戦国現地セミナー 第2回
2009年7月12日








 *約一年後のレポートアップです。このツアーで早雲寺に行っていたのに、行ったこと自体をすっかり忘れてしまっていた一年後・・・一年って、物忘れ激しくなるくらいイロイロありますね。


 このツアーは天正18年、秀吉の小田原攻めのルートをたどりました。

 まずは、東名高速を沼津へ。
 車内の事前学習。
 今回のレポはワタシが吸収できたことのみを、つれづれなるままに記します。


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 箱根外輪山が国境になっていて、しかし軍事的国境と分水嶺とは異なり、分水嶺は小田原方が持っていた。外輪山の外側から川までの間は中立地帯として、お互いに兵を出さない場所になっていた。

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 戦国時代は、石高制ではなく、貫高制だった。
 知行高が同程度の池田孫左衛門尉と小曾戸丹後守は、それぞれ26人、27人の人員を持っていたけれど、池田は槍、小曾戸は鉄砲の人数がそれぞれ多かった。それは軍役として命令されている内容が違うことを示していて、個人的武装ではなく、求められていることをするのみだったことが、わかる。

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 北条・武田・今川の三国同盟は、桶狭間の戦いにより今川義元が死んだことにより、くずれた。軍事力のバランスが均衡を保つということは、平和なことであり、どこか一方が崩れることにより、その同盟は崩れ、平和ではない状態になる。つまり、桶狭間で信長が勝ったことは意味が大きいのだ。

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 河村新城という、山城が高速右手に見えた。(城名表記がわかりません>_<;→教えていただきました!)
 河村城の出城で、武田氏の侵入に備えて築かれたようです。
 ミラにとっては例の(笑)遠山康英のパパ遠山康光(景虎を最期まで守ろうとした人)が一時、城代として入っていたそうな。

 三国同盟が崩壊した後、北条が相模に近い武田領・深沢城を攻めとった。信玄はとられっぱなしにしておくわけがなく、城を攻める。籠城する綱成に対して、降伏をすすめる手紙を矢文にして送っている。

 ■三島大社
 秀吉が軍を置いていた場所で、門前町として栄えていたために、拠点にしていたのだ。
 小田原攻めはココから始まっている。
 三島大社の背景は、"自生している森"らしい。手を加えなければ松などが自然に生えることはないらしい。

 ■山中城
 秀吉が攻めたお城。
 三島市は、土塁と土塁の間の虎口を埋めて土塁をつなげちゃうとか、けっこうすごいことをやっているらしい。

 縄張図について。
 縄を張って築城工事をしたことに由来する。このなわばりは、領地争いの縄張りとは意味が違う。あくまで、城のレイアウト決めのことなのだ。

 東海道が城内を通っていて、篭城する=街道封鎖、を意味する。

 障子堀。
 障子とは、障害因子、バリケードのこと。鼻の穴と穴の間にある部分を、鼻障子と言うように、障害物のある堀、という意味になる。この障害物は、敵を動きにくくするということもあるが、また一方で、味方が逃げにくくする、という意味もある、気の毒な、戦場の生臭さを感じざるをえない堀なのだ。

 この本丸の櫓に、人が集中したために重量オーバーでやぐらが倒れ、文字通り、落城した、らしい・・・(゚д゚≡゚д゚)

 ■お昼
 わっぱ飯と雲助汁。
 荷運びや飛脚のことを雲助といい、エネルギー源は豚汁→雲助汁となったそうです。
 わかさぎの揚げ物が出てきましたが、温かくて、想像よりおいしかったです。

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 箱根は高耶さんと直江が最悪状況にあった場所だし、氏照兄と直江との"高耶さん剥奪戦"が繰り広げられたところ。
 みなさんは秀吉の小田原攻めのことで関心していらっしゃったと思いますが、ワタシは北条兄弟、氏康パパのことを想いながらのフィールドワークでした。
 氏康の書状なんかを見てしまうと、やっぱり思考はミラにしかなりませんッ!


 ■箱根の関所
 時代劇に出てくる、あの、箱根の関所です。関所破りは罪が重い、あの関所です。入り鉄砲に出女が厳しい、あの関所です。
 背後に北条の屏風山城を持ちます。

 ■早雲寺
 北条五代のお墓がひっそりとあります。
 お寺は、年に一回の公開以外は、人がいない感じです。

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 鈴廣のあたりから正面に、細川藤孝の本陣-フジサンが。左手の住宅が立ち並ぶ丘の上が城壁だったらしい。街中の地形が、昔を物語っています。

 ■小田原城
 氏照の運転するパジェロに乗せられて、小田原城にやってきた景虎。天主閣展望台から、「あれが太閤秀吉がつくった城があった石垣山」と説明されて・・・。
 海が見える気持ちいい眺め。景虎もこの景色を見たのかな(VIV。(- ェ -。)と・・・。

 ■石垣山一夜城
 一夜城といえば墨俣だったのですが、今回初めて、石垣山という存在を知りました。いずれも秀吉だし・・・秀吉はとっかん工事が好きだったのかしらね。
 関東大震災で崩れたという石垣と、当時のままの石垣が同時に存在。スゲェッ。
 「俺さまスゴイだろ」的に、伊達に見せたという、石垣も。子供ですかっ!

 小田原城を見張るために建てたそうですが、、、その見晴らし台から見る小田原城はほんとーに小さく、、、もっと大きく見えるかと思っていたので、こんなことで建てる意味があったのでしょうか・・・? あるいは、昔は、小田原城しか見えなく、こんなことで充分だったのでしょうか・・・?


 ■まとめ
 高速から、あるいは箱根を歩いている目の前、後ろと、そこここに北条の城があり、また、小田原厚木道路を挟んで左に宇喜田、秀次の陣、右に蒲生、そしてしばらく行くと織田信雄の陣(!)、と秀吉軍各部隊の陣があり・・・移動しながら「そこがダレそれの城があった」「そこにダレそれの陣が」といった解説を聞くと、臨場感あふれ、とても広い範囲が戦場になっていたようです。
 秀吉と北条家だったら、北条家の方を断然応援するのですが、こんなこんな攻め方されてたんだなと、その規模感に驚きました。関ヶ原の比じゃないような。

 藤井先生のナビゲーションは、とてもおもしろくて、世の中に出回っている間違った解説の訂正を根拠をもってしてくださったり、笑いを織り交ぜたものです。
 「いっても戦争をしている。障子堀には敵を動きにくくするということの他に、味方が逃げ出さないようにする、という見解もあるのだけれど、危険度の高い仕事をしていることになる。全体を守るために最も危険な役割をする人がいるし、それを命じる人もいる。命じる人は、最大限効力を発揮する仕掛けを、味方に対してもしている。この塊で、戦争を行っているのだ」という見解は、とても深く染み入りました。つまり、「全体最適」ということですね。

 信念を持って戦っていた人がいた、そこで亡くなった人がいた、ということを知るフィールドワークを通して、身近なところから、近しい人から、ちょっとずつシアワセな気持ちにしたいと、思いました。





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