「天地人展」サントリー美術館
2009年7月10日









 2回目の訪問。
 会期中は作品の入れ替えが多く、6月中旬には来ていなかった「洛中洛外図屏風(国宝)」がついに東京にやってきたために、Yさん、Sさんと、行ったのでした。


 1572年(天正2年)、殿から上杉謙信に贈られた、狩野永徳の作品です。

100630

 人々がイキイキしていたり、細川家が一際大きく書院造りとして立派に描かれていたり、雲部分の絵の具の厚さに作者の息遣いが感じられたり、「殿はすごい発注をしたなー」と思いました。(そこ?!)

 狩野派四代めの狩野永徳によって描かれた洛中洛外図は、初期の地図のような絵。自社仏閣や人々の生活を雲の合間に描いた、想像が働く絵。この20年後には唐獅子屏風絵を描いていて、繊細な絵から大胆な絵に変化しています。
 彼はたくさんの絵を描いたそうですが、多くは残りませんでした。絵を発注した人が絵を保有したまま戦乱に巻き込まれたら、灰となってしまうわけです。この洛中洛外図は、信長から謙信に贈られたために残った。都落ちしたために残っているようです。
 安土城の内部は全て永徳に描かせています。しかし安土城落城とともに、わずか3年で焼け落ちてしまいました。戦とともに散ってしまう芸術作品。惜しいですね。

 この写真はミュージアムショップで売られていた、ミニチュア屏風のように折れ線が入っているものですが、「400円って、超安くない?」と即買いしました。
 「超安い」ということにYさんの同意は得られず(笑)、高いとみるか安いとみるかは、殿への興味度で全然違うんだろうな(笑)と思いました。

 石田三成から真田昌幸、信幸、信繁に送られた書状や、政宗の今井宗薫宛の書状、景虎さま(御舘負け組の、です)の書状があったり、、、、政宗の書状の最後には「恐惶謹言」とあったり、前回は見られなかった書状がたくさんあり、ウハウハでした。
 景虎を自刃に追い込んだという景勝の書状があり、「去年来の鬱憤を散らす」と書かれているのだそうです。現代語にするとニュアンスは違うのかもしれませんが、大河のような「本当は戦いたくないけど仕方なく戦う」ということとは違ったのではないか、と思いました。
 景勝、お習字上手ですね。

 兼続の終焉の地は、現在の警視庁がある場所なのだそうで、あの三角形から、「鱗屋敷」と呼ばれていたのだそうです。ビックリ・・・。

 この後半の豊富な出品のせいか、あるいはもうすぐ終わるからということか、若い女性が多く、作品の出し方に非常に意図的なものを感じてしまいました。





別冊ナカジンの表紙へ

月刊ナカジン表紙へ戻る