「戦国城郭の歩き方(北条氏の築城テクニックを学ぶ)」
もののふ戦国現地セミナー 第6回
2010年11月7日








 戦国時代の関東の城は石垣はなく、土塁、空堀を廻らせたもので、それを実感するフィールドワークでした。

 北条の城を訪ねるということでしたが、行きの車中で自己紹介をした際、好きな武将で北条を挙げた人は誰もいませんでした。。。
 織豊時代オンリーなワタシは「鉢形って何県? 北条ってことは関東圏だよねぇ」という低レベルさでしたが、時代背景などもわかって、勉強になりました。。。


■鉢形城

 いきなり、いわゆる戦国時代ではない、関東管領山ノ内上杉氏の本城でもあった、鉢形城。
 関東の戦乱は応仁の乱より前からあり、室町幕府から送りこまれた関東公方が次代を息子に継がせようとするが、幕府から次代を送られ、次代をねらって争いが起きるとか、公方がいなくても政務は関東管領ができるので、公方と管領とで争いが起きるとか、山ノ内上杉氏と扇谷上杉氏が争いになるとか、山ノ内上杉氏の家臣、長尾景春が謀反を起こし、城をとるが太田道灌に落とされ、それを長尾景長にとられ、上杉が奪回する、と。それから在地の藤田氏が管理し、藤田氏を継いだのが、北条氏康の四男氏邦だった。
 そのため、天正18年の小田原攻めでは、氏邦が小田原に行かず、鉢形城で籠城する。
 ここを包囲したのが、華々しい武将たち、本多忠勝(車山に陣)、上杉景勝・前田利家(氷川台に陣)、真田昌幸(寄居山に陣)だった。

 とったとられたがなぜ繰り返されたかといえば、鉢形は荒川の水運の利で、また、相模と上州を結ぶ通過点として大事にされていたのでした。


 ひろーい全体。二の丸から逸見曲輪、三の丸をグルーリと見渡せる、本当に広い野原。二の丸から馬出への道では荒川が眺められ、スケール感が、いい!!
 諏訪神社から雑木林へ抜けると、JR八高線の線路が。
 管領の屋敷があった本丸も広い。
 三の曲輪には、月を眺めるための池があったり、馬出近くには弁財天社があり水堀の中に築山があったり、、、戦いながらも文化的側面にお金をかけていたことがうかがえ、関東管領は室町幕府の義満よりも裕福だったかも?なんて想像ができます。
 文化的な側面で整えられ、戦っていただけではない戦国時代の一面が見えるいることから、三の曲輪は、北条が同盟を結んでいた武田家を迎える用意をしていた場所と考えられるそうな。武田家と関係深い諏訪神社があることからも、武田家に対して敬意を表していたのではないかと。


■杉山城

 歴史は文献史学なのですが、杉山城についてはどこにも書かれていない。特徴があるだけで、その特徴・構造から検証されているそうで、とはいえ、こちらも関東管領の時代のお城かも?です。
 発掘して何も出てこない、ということは、軍事目的で急に城を作り、それほど機能せず、その後は使われなくなり、遺物が残らない、ということが考えられるらしい。こういう場合には遺構からの年代判定は不可能となる。
 なるほど!

 ひとつの曲輪が50メートルくらいなので、ひとつの丘にとてもコンパクトにまとまった城で、(論理は不明だが)土橋と木橋をきちんと使い分けていることが感じられる、城作りのプロが作ったと想定される。
 尾根には土塁をしっかり作るが、急斜面には土塁を築かないなど、メリハリがきちんとしていて、超軍事目的であり、合理的に作られていることがうかがえる。


■菅谷城(館)

 杉山城よりも広く、大きな構え。相模から上州への休憩地だったのではないか。 また、北条家では、7月7日に軍役をチェックしていた。いざという時のために、規定通りの兵そうが整っているかをチェックする日で、その空間に利用された可能性があるかも。
 まだ、この城の意味合いは見えていないらしい。



 どの城も、土塁、空堀で構成されていて、攻められたときに迎撃できる土地づくりをしていたよう。石垣がないから地味なように感じるけれど、土地の緩急で城を作っているのもスゴイな、と歩いていて感じられた。また、合理的に作られ、そこが関東らしいのか、とも。

 江戸時代、城は大名の住居だった。
 戦国時代は、軍事的、政治的等の居城であり、たくさんの種類があって作り分けられていたことが、この三城で実感でき、フィールドワークの面白さに満足した一日でした。





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