信長さまのご幼少期に触れる・・・「初心に帰る旅」
2011年4月10日








 名鉄で、勝幡、津島、枇杷島を訪れ、信長さまのご幼少期に触れる旅。


 信長さまが生まれたとされる場所は2ヵ所、あります。
 一つは、名古屋城二の丸。もう一つが、勝幡城。父・信秀がいつ(1532年 or1538年)名古屋(那古野)城を今川方から奪っていたか、というのが判定基準 になりますが、当時の資料はなく、このどちらであるか、確定はしていません。(第三の場所があったりして^^;)
 が、1532年説が有力です。

 案内板によれば、信長の祖父・信定は、津島港と尾張国府の稲沢市松下とを三宅川で往来し、尾張西部を手に入れるために、勝幡を拠点としたそうで、1504年(永正元年)ころに築城されたようです。
 父・信秀は、津島を拠点に勢力を拡大し、富を権勢拡大に使い、尾張の雄となっていきます。

 ワタシはずっと、名古屋城二の丸説をとっていました。が、信長さまが経済や 物流に重きを置いていたことを考えると、祖父・父が物流を見越して津島を押さ えるための拠点として城を築いた勝幡で生まれた説を、今回から採ることにしま す。
 信長さまが大阪・堺をおさえた意味もよくわかるようになります。

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 信長さまが生まれたのが1534年5月12日。1542年以降、父・信秀が古渡城に移り、信長を那古野城城主にしています。なので、10才くらいまでの多感な時期を勝幡で過ごし、その間、帝王学を教えこまれたのではないかと思います。
 ここから信長さまの天下統一への一歩が始まったんだ〜、と思うと、やたらと 写真を撮ってしまうワタクシ。石碑があるだけなのに。でも、だって、476年前 のココに生まれたんですよ〜。

 勝幡城は日光川と三宅川の間にあります。周りは田んぼや畑や住宅地で・・・平らな場所という印象。
 城址付近のよめふり橋には、勝幡城全景の板金がはめ込まれています。

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 実は、ちゃんと勝幡城の場所を確認していなかったので、駅を降りて困ってしまいました。はて、どちらに行ったらいいんだ?と。駅に案内板は何もありませんし。これを期待していたのですが^^;。
 運よく、やさしいおじさまに教えていただき、しかしそれがちょっと間違っていたと自転車で追いかけてきてくださり、無事に行けたのでした。おじさん、ありがとうございました!



 勝幡から津島へ移動。

 今の津島市内にはにぎやかさは感じられません。街道の名残がある趣のある町 ではありますが。

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 途中で偶然に見つけた清正公社。
 この地に居た叔父夫婦の家に清正は滞在していたことがあり、鬼の面をかぶって押しこみ強盗をやっつけたそうです。(←ちょっといい加減な解釈かもしれません^^;)

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 津島のマンホール。
 天王祭りの提灯と、藤だなの藤、です。

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 雲居寺は、桶狭間の戦いで今川義元に一番槍をつきつけた服部小平太の菩提寺となっています。
 北町と言われるところにあり、那古野から津島に抜ける上街道の北の入り口となっていたようです。

 この隣に、不動院があるのですが、新聞連載「青銭大名」にも出てくる、正覚院のことだそうです!

 <ご参考>
 http://www.tsushima-cci.or.jp/mati/wakuwakuweb/area/d_02.html
 サイトトップ:http://www.tsushima-cci.or.jp/mati/wakuwakuweb/index.shtml
 (引用)室町時代末期の連歌師・宗長(1448〜1532年)が書き留めた『宗長日記』の大永6年(1526年)に「…旅宿は此所の正覚院…」と記されています。この正覚院が現在の不動院のことで、当時は織田家賓客の宿坊機能を有し、織田信長の父・信秀がここで宗長を接待したと伝えられています。(引用終わり)



 津島湊と言われた天王川公園へ。
 元々は運河で、物流の盛んな場所でしたが、今では池になっています。毎年7 月(旧暦6月)には天王祭りが行われ、山車はエキゾチックににぎやかです。
 堤防ができるまでは大橋がかかっていたようで、信長さまは橋の上から祭りを観覧したようです。その推定場所 から、信長さま目線で写真を。
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 桜が満開! 暑い中、広島焼を買って一人ランチ。
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 きっと鳴り物と人々の喧騒でにぎやかだっただろうな〜、と妄想するのでした。



 すぐ近くにある津島神社へ。

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 織田家、秀吉、家康から多くの寄進を受けていた神社。そこここに織田木瓜があります。
001 屋根とか、 001 幕とか、さい銭箱とか、 001 駐車場のおじさんのはっぴも。

 なぜ三英傑がそれほどまでに入れ込んだのか、興味深いです。

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 秀吉が寄進して建てられた楼門。
 天正19年ですよ、、、門をペタペタ触ったり、目を閉じて音を聞こうとしたり、つい、昔を感じようとしてしまいます。



 津島を後にして、信長さまご幼少期、まだ吉法師と呼ばれていた頃の遊び場だっ た枇杷島へ。
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 今では河原という雰囲気がありませんが、庄内川河原で、信長さまは魚をとり、 水遊びをし、竹槍の訓練をしたそうで、とにかく、遊び場だった、と。
 隣村の中村からは秀吉(日吉丸)が遊びに来ていたそうで、一緒に遊んでいた そうです。

 秀吉は1537年生まれ。信長さまより3つ年下。いい感じです。
 秀吉は1554年ころから信長に仕えますが、それより前に接触があったというこ とが、ワタシには最近まで盲点でした・・・。




 今回、事前の情報整理が全くできていなかったことに、現地に行ってから気付きました(苦笑)。
 思い立って新幹線に乗ったに等しいので、準備が不十分ではあったのですが、地図や御朱印帳を忘れたり、場所をきちんと確認しておかなかったり。なので、帰宅後に調べて、いろいろわかったことがたくさんあります。「あそこはこういうことだったのかー!」と。
 散策するには不十分で、「こういうことを事前に知って、歩きたかったな〜」というところが多々あります。
 不動院=正覚院ということを知ったのも、帰ってきた後ですし。
 旧枇杷島橋の場所にはとうとうたどりつけなかったですし。

 また、歩いたところは美濃路などの街道と関係しているところで、街道を今イチ理 解していないワタシは、見るところにかなりの落度がありました。
 やはり、信長さまに触れるには、道路、地理関係なども押さえておかないと深 くは触れられないな、と思いました。
 思いつき と勢いでパッと身軽に旅に出るのも考え物ですね。
 けれど、最近の運気低迷は場所を移動していないからだ、と思い至り、動きました。
 結果として、おおいにリフレッシュできましたし、信長さまの幼少期に触れられましたし、新聞連載「青銭大名」の背景を知ることができ、信長さまの政策の元は父と祖父にあり信長さまが突如として出てきたわけではなく"つながっている"ということがよく理解でき、良かったと思います。





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