信長公432回忌
2013年6月2日








 本能寺の変。
 それは1582年に殿がお討ち死にとなったできごと。
 覚えやすい語呂合わせは「殿はイチゴパンツがお好き。」です。



 明智軍はいくつかの隊に分かれて本能寺に向かったとされています。そのうちの一つと思われるルート、堀川蛸薬師バス停から堀川高校脇に入る。
 少し歩くと、特別養護老人ホームのリッパな建物と、「本能寺の変」の石碑が目に入ります。
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 左側にまわりこむと、もともとあった石碑があります。
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 特養ホームを右手にすると、左手が元本能寺町。北へ2ブロック分くらい、町名にして元本能寺町・本能寺町が、本能寺があったとされている場所です。
 『このヘン、すごい騒ぎだっただろうなぁ〜』と往時を想像しながら油小路を北に進み、御池通りへ。
 御池通りに出たら、烏丸御池方面へ。

 明智軍が、殿の息子・信忠が休んでいた妙覚寺へ向かったと思われるルートをたどる。
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 新町通りと衣棚通りの間が、妙覚寺があったと思われる場所で、上・下妙覚寺町と町名に名残があります。
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 信忠は、京都所司代・村井貞勝(殿の右腕)から「本能寺は堕ちたでござる。明智軍がこちらに来ます。二条御所の方が頑丈ですからそちらへいきましょう」と進言され、移ります。
 二条御所は、殿が京都での住まいとして建て、後、誠仁親王に譲ったお屋敷。
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 現在、そこはマンガミュージアムや金融機関になっています。

 間もなく明智軍が攻め寄せ、しかし多勢に無勢、ついに二条御所に火を放たれ、信忠は自害しました。

 えっと、まるでワタシが明智軍であるかのような町歩きになってしまいましたが。

 殿と信忠、一門が討たれた堀川蛸薬師から烏丸御池までのエリアの地を踏んでいると思うと、なんともいえない感情が押し寄せました。『もしかして、今、その時代に飛べるじゃね?』と思わされたくらいに。


 名残惜しい感じがして、烏丸御池から元本能寺町まで、また歩いてみました。途中、逓信病院脇をあえて通るようにして。
 ここは、燃え盛る本能寺の中から遺骸を取り出した清玉上人が信長の首を洗ったとされる「信長首洗いの井戸」があるのです。5年前は入れたのですが・・・ワタシみたいな人が増えたのか(汗)、部外者進入禁止と入れない柵が高くありました。

 スタート地点となった特養ホームに戻ったところで9時を過ぎていたので、阿弥陀寺へ行くために、蛸薬師通りから地下鉄烏丸線の道路に出ます。
 烏丸線で今出川へ、そこからバスで河原町今出川へ。
 10分ほど歩くと、阿弥陀寺。
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 織田家と縁のある清玉上人が、近江・坂本に、阿弥陀寺を建立しました。
 その後、殿が帰依し、殿が上洛した際に上京区今出川通大宮に移されますが、その時は広大な寺院でした。
 本能寺の事件を聞きつけた清玉上人は駆けつけ、既に焼かれていた殿の遺骨を持ち出し、供養しました。
 天下人となった秀吉は、遺骨が阿弥陀寺にあるらしいと聞きつけ、殿の葬儀をするから遺骨を引き渡すよう、求めます。
 政略争いに巻き込まれたり、その材料となることを避けたい阿弥陀寺側は、秀吉の再三の要求を拒否します。拒否された秀吉は、殿の木像を作ることで、葬儀を執り行いました。
 その後、秀吉の区画整理で、上京区から現在の地に移され、その際に、寺地はかなり縮小されました。
 それは、遺骨を引き渡されなかったことのうらみゆえ、と言われています。
 業火に見舞われた本能寺で、殿の遺骸(あるいは遺骨)を見つけることができたかどうか、戦乱の中を一般僧侶が出入りできたかどうかはわかりませんし、正確な資料はありませんが、(姿は)僧侶ですし、明智軍の包囲を抜けられたのではないかと、ワタシには思えます。


 参加手続きをしてから、まずはお墓参り。
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 曜日がいいせいか、ぞくぞくと一般の方が来ます。例年の3倍以上でしょうか。
 (希望者だけだけど実質的には全員が)お焼香を済ませると、法要には1時間半はかかっていました。なので、その後に開催されたお寺のお宝解説や住職さんのお話は聞かずに、京都駅へ。河原町今出川から京都駅までは、バスでけっこうかかるのです。

 安土に行ったら食べられない可能性が高いので(コンビニや手ごろ飲食店が駅周辺にはない)、京都駅で駅蕎麦。
 安土までの40分は爆睡。


 安土。殿の像と対面&ご挨拶。
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 自転車を借りて、殿のお気に入りだったお城・安土城址へ。
 百々度橋口に出ました。
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 その昔、安土城の周囲は湖でしたので、百々度橋口は城下と城とを結ぶ入口の一つがだったわけです。
 ここからは入山できないため、正面口にまわります。

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 ひたすら石垣をのぼる。大手道には石仏が使われているのがそのまま残っているのですが、殿の合理性が見え、殿は確かにいた、と強く感じます。
 頂上にあたる天主跡に立つ。
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 お天気が良くて、見晴らしが良くて、340年前に殿が見た風景かなぁ〜、なんて思いながら堪能。(琵琶湖とは反対側の、安土の街並み)
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 発掘調査が行われる昭和15年までは、本能寺の変からそのままだったそうです。なので、礎石などがちゃんと残っているし、当時の瓦などが今も見つけられたりするようです。

 下山して、安土町一周。
 そうして、浄厳院へ。
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 1578年(天正6)、殿が建てさせた浄土宗のお寺。元々は近江八幡にあったお寺を移設したようです。
 ここは、法華宗と浄土宗とで争われた「安土問答」が行われた場所。
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 ここに、殿が来たのですかねぇ。


 駅に戻り、城郭資料館で休憩。資料館はちょっとアレな感じになっていたのですが・・・
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 木瓜のカップ&ソーサーでコーヒーが提供され、疲れが一気に吹っ飛びました。スゴイです、木瓜パワー。


 自転車で、殿が築いた安土の空気を感じられたのが、満足でした。
 安土から米原に移動する際、車窓から安土城を眺められるだけ眺めていたのですが、まだワタシが見ていない反対側の山の半分が見られて・・・今度は自転車で山の周囲を走ろう!と思ったのでした。

 殿がいたことを感じられ、また、今もいるんじゃないかと思わされる、幸せな一日でございました。





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