御土居堀を歩いた!
2014年5月4日








 コレ以来盛り上がってしまった御土居堀。(信長関係ないぢゃん!というのは置いておいて。)
 現在、国の史跡に指定されているところは9個所、その他、指定されていないけれど土塁が残っているところが2個所、あります。
 実は、この番組を見て、初めてその存在を知りました。現代の第一人者でいらっしゃる中村武生先生のご本を読み、史跡を巡っている方のブログテキストなどを読み、「歩きたいな、歩きたいな」と思っていたところ、先生のサイトに企画が。
 これもタイミングでしょ、ということで、京都日帰りお出かけ。
 御土居堀は総距離24キロくらい。「参加自由、事前申込不要。一部分を歩き、その日終わった場所が次回の始まりの場所」という午前中2時間のツアーを繰り返していらっしゃるご様子。今回は、円町駅から南へ歩く内容で、国の史跡・市五郎大明神も含まれるのでは?という期待で参加。
 午後は、国の史跡指定地を歩くスケジュールをたてました。



 京都駅から嵯峨野線で円町へ。このラインが、もう、ご本にある御土居堀ルートで、ワクワク。
 駅に集まったのは15名ほど。ワタシ、最年少???(笑)
 初めて参加の人は数名。もともと先生のお知り合いという感じの方たちではないですし、京都では関心が高く、また、こういった企画に参加できてしまう行動力がすごいですね。歴史だから、というのもあるかもしれませんが。



 円町は、ちょうど「御土居の袖」の中にあたる部分で、土塁跡にある佐井通りを南へ行くと、手前の地区会館と向こう側の消防団とに段差が。
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 右側の消防団があるところで御土居堀は屈曲していて、堀にあたる部分、だから下がっていると。こういうふうに、御土居堀がそこここに生きているわけです。
 ココはご本の中にも写真があったのですが、あまりイメージできなかったのです。が、現地を見て、「袖」にあたる部分でここは屈曲のポイントなのだ、ということがわかると、その写真の意味が理解できます。
 というように、ご本を見た時には今イチピンと来なかったことについて、理解できたことが収穫でしょうか。

 この堀より南は「洛外」で、そこには刑場や刑場に向かう人が最後に飲んだ水飲み場とかがあったようです。

 堀を左にして東へ歩き進むのですが、堀跡には住宅がズラリと立ち並んでいまして、どこもヒビが入っています・・・。
 堀が埋まってから100年たっていない時期での開発のため、土が固まっていなく、そこに家を建ててしまうから、ちょっとの揺れでもヒビが入るようです。大きな揺れがきた時には沈む可能性もあるとか。

 向こう側に建つ住宅は土塁、空き地が堀、高低差がすごいのがわかります。
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 以降も、堀跡には最近建ったと思われる住宅がたくさんあるのですが、ヒビが入っていない家はないくらいで・・・。
 京都で住宅を買う際には確認が必要ですね、、、。

 「御土居の袖」の南側の入り口となる紙屋川の橋から南を眺めます。
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 ここで御土居堀は「袖」と言われる突出した部分がつくられ、黒い建物(緑のネット)がある辺りが土塁。洛中を流れていた紙屋川はここから洛外に流れることになります。

 橋を渡ったら、堀を左手に南下。
 途中、土塁跡にある地方気象台、児童公園を過ぎ、ついに、市五郎大明神、初めての「史跡 御土居・西の京御土居」(1/9)。
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 堀跡に、鳥居が連なっています。
 土塁の西側の高まりは石垣状態。
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 土塁の頂上に!当時のまま!
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 それほど広くはないです。木の向こう側、北の方向に、本当なら土塁が連なっているのです!!!
 それが想像できる幸せ・・・。


 神社を外からまわりこむと、土塁らしさが感じられます。土塁の南側断面といった感じでしょうか。
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 初めて、土塁を感じる場所を訪れ、感激しておりました。

 神社の北側の住宅地は、東西にわたる通りをはさんで高くなっています。土塁を削って道路を造ったため、道路は低く、土塁跡にある住宅の場所は高い、ということになります。

 大明神から南に少し歩いたところが空き地になっていまして、そこはまさに堀跡。住宅をたててはいけない場所、なのでした。

 感動と充実の2時間を過ごし、西大路御池で解散となりました。

 関西の方たち同士の会話は、おもしろいですね。返しがステキすぎるというか。全てに反応してしまって笑ってしまっていました(良かったのかな???/汗)
 きっとあれが日常的なのだと思いますが、なんか、いいなーと思うのでした。





 ここからは一人で、先生のご本と地図をガイドに、史跡9個所(1個所は行ったので、残り8個所)を歩きます。
 来た道を戻る形でひとまず北上、「袖」の土塁は歩かずにショートカット、北野中学校を目指します。

 史跡にはなっていませんが、校内北西に森のように土塁が残っている場所。中に入る手続きはしていないので、外側から眺めて、土塁らしさを感じます。(未指定地1/2)
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 先生のご本は、前半は京都新聞に連載されていた記事、後半は実際に土塁を歩くガイドという構成になっています。その後半には土塁や堀を感じるルートが詳しく書かれていて、この通りに歩いてみよう、と思った次第。

 北野中学校からはガイド通りに北野天満宮へ。ここは「史跡 御土居・北野御土居」(2/9)。
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 先生のガイドのおかげで、いわゆる観光ルートではないところを堪能。
 北へ伸びる土塁。
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 天満宮北口にある土塁。
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 北口を出ると、平野神社の鳥居が見えます。
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 昔は、ここを土塁が南北に(橋の手前を)通っていたので、鳥居を見ることはできなかったそうです。
 少し北へ歩くと、住宅街に「史跡 御土居・平野御土居」(3/9)。
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 石仏は、発掘をした時に出てきたものだそうです。
 殿が、安土城築城の際に石垣に石仏を使い、仏をも恐れぬ人みたいな言われていますが、この当時、石仏を使いまわすことは普通だったのかもしれません。
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 反対側(写真の、ちょっと見える屋根がある側)に行きたかった・・・!(体力・時間的に断念)
 「登ってはいけません」と書いてあったのですが、「のぼりたいぃ〜」とつぶやいていました。過去にのぼった方がブログを書いていたので・・・。その後、禁止になったのかもしれませんね。
 "北野天満宮から土塁がつながっているっ!"感ったら。

 次の史跡に行く途中、紙屋川にかかる橋、「高橋」が。
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 寺之内橋と表記がされていますが、地元では「高橋(たかばし)」と呼ばれる橋。
 秀吉が通ったことが確実と史料から確認できるそうです。御土居堀に設けられた口(洛中と洛外との通り道)のうち、豊臣期に開いていたことが確実な場所であります。
 秀吉が歩いた(通った)!と何往復もウロウロする怪しい人になりました・・・。

 河岸段丘(?)という自然地形を活かした御土居堀が感じられます。
 紙屋川と、川の東側(土塁の西側)との高低差がすごいのです。
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 このあたり、突然な急な坂ばかり。
 ご本で、紫野地域の地形について書かれているのですが、この解説がなかったら、見落としていたでしょうね。(そんなところがたくさん! つまり、見どころがまだまだたくさんある、ということです。)

 しばらく北へ歩くと、「史跡 御土居・紫野西土居町御土居」(4/9)。
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 土塁ではなく、周辺土塁を破壊した土を集めた、残念なもの・・・。

 柏野小学校脇を歩き、児童公園前で左大文字を眺め、佛教大学脇を長く歩き、何やらお遍路的な雰囲気の場所になってきます。
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 西側は崖、その下に紙屋川、みたいなすごい地形で・・・本当に自然地形をいかしているんですね。
 こういう、地球を感じる地形、好きなのよねぇ〜(笑)。

 廃校(?)の東(上の写真の右側)に「御土居史跡公園・鷹ヶ峯旧土居町3番地」(5/9)。
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 こちら(↓)は東側から。
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 西側(紙屋川側)からはものすごく高さを感じるけれど、東側からはそれほど高さを感じない、自然を活かした造り。

 北に行くと、しょうざんの南駐車場、徒歩の入り口が。
 ご本を読んだ時や人さまのブログを見ていた時、一般名詞として普通に登場するため、「しょうざんって、何?!」と思っていました。検索してみると、結婚式場やアミューズメント施設、和風でおしゃれなレストランなどが合体した施設のようでした。しかし、この駐車場からはそんな華やかな雰囲気が感じられません。
 しょうざんの件とはちょっと違いますが、「●●通り方向に向かって」みたいなことが(当たり前ですが)普通に書かれているのですが、メインストリートがどこを走っているか土地勘がないので、事前読み込みではかなり苦労しました(汗)。
 南駐車場へ入ると、右手に広がるのが、雑木林と化した土塁跡。
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 土塁というより、山です、山。
 この規模感のものでこんなふうに(↓↓)囲われていたら、
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 ・・・確かに都市開発はできないよね、ということは初めて理解したのでした。
 閉鎖される側が、イヤですよね・・・。

 しょうざん駐車場を出て、ガイド通りに小さなお寺(無人)に。さきほど見た山みたいな土塁の上にあるイメージ。ちょっと怖い場所でした^^;。

 そこから千本通に出て北へ歩いていくと、御土居堀の北辺に屈曲する場所に「史跡 御土居・鷹ヶ峯旧土居町2番地」(6/9)。
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 土塁の背景にある三角の山は、洛外にある山、なのでしょうか・・・???

 車でワタシとは逆にまわっている方とご挨拶。ご案内しますよと言ってくださったのですが、逆周りですし、何より「先生のご本通りに歩きたいので」と遠慮申し上げました。本のこともご存じな方だったので、良かったです。

 史跡の向かいにある光悦堂さん。
 お約束の御土居餅と、わらび餅をいただきます!
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 わらび餅は帰りの電車内で食べてしまいました。いずれもとてもやわらかい、なめらかなお菓子でした。

 お店の北側の通りが御土居跡、東へまっすぐ行くと森っぽいものがあって、ヘンな突きあたりっぽい。けれど、歩きなら行けそうだったので、階段を下りてみると、どうやら土塁っぽい。
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 石碑が埋まってる・・・。
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 まわりこもうと左手を途中まで歩いてみたのだけれど、なんだか草ぼうぼうで、ちょっとためらい、、、。
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 狭いフェンスの合間を右に行くと、児童公園が。
 人ひとり通れるかどうかという微妙な通路が、周辺住宅の方には使われているっぽい・・・。夜は怖くて歩けないですよ、、、。
 この児童公園からガイドにある招善寺がどちら方向にあるのか、わからず。
 そして、次なる史跡地の「玄琢下」もどちら方向にあるのか、はっきりとわからず。

 カンでウロウロしたら招善寺を見つけ、「ということは・・・」と歩き進めたら、「玄琢下」の信号。左手を見るとありました「史跡 御土居・大宮御土居」(7/9)。
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 どうやら児童公園にあった土塁とつながっている模様。風景が似てます。さきほどはまわりこむことをためらったのですが、歩いていたらココに出たのかもしれません。


 予想通り、北側にはドトールみたいなお店やファミレスは(ルート上には)なく、ひたすら歩き続けることに。なんか、歩き遍路みたいな感じでした^^;眺めや雰囲気も、ザ・京都、ではないですしね。


 史跡指定はされていない大宮交通公園に向かう。
 ここにも土塁が。(未指定地2/2)
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 通りから土塁とお社が眺められるので、そのまま堀川通りへ歩き進める。
 ななめ方向に歩くのだけれど、これもルートはカン&先生のご本にあるトレース図+見た目からの割り出し。
 基本的に道はマスメ状なのですが、家が斜めって連なっている場所がそこここにあり、土塁が走っていた名残が感じられます。

 堀川通りに出て、「史跡 御土居・紫竹御土居」(8/9)
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 堀川通りを渡って一枚。
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 堀川通りで分断された土塁の名残が、鴨川寄りにみられます。
 加茂川中学にも土塁はあるようです。
 鴨川、鴨川街道、中学校、堀川通りと、地形として土塁が残っているのですが、その探索は省略。

 光悦堂さんあたりからここまでは、市販の地図もちょっと微妙、先生のご本もどういうルートを歩くかはちょっと微妙、トレース図と見ためからのカンで歩かざるを得ないところがあります(汗)
 北部は開発が遅れたので、土塁跡が多く残っているのでしょうね。そして、土塁と共存して道が入り組んで細かったりするので、市販の地図上でも描ききれないのかもしれません。


 だいぶ疲れていて、コンビニでアイス調達。
 ・・・まだ残っているのですよね。



 バスで堀川今出川へ。
 そこから河原町今出川へ。
 南へ歩き、「史跡 御土居・蘆山寺」(9/9!!)。
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 寺町に唯一残る土塁ですが・・・中に入らず(中に入るには回り込む必要があった・・・)河原町通りからの眺めでOKとする。(→だいぶ疲れてた)
 向こう側は、墓地。墓地があるところは土地が下がっているから、卒塔婆の上部だけが見える感じ。
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 歩いた距離は、・・・半分の12キロくらいでしょうか。普通に歩くだけなら2時間で歩けますが、ガイドの通りに、いろいろ眺め、確認しながらなので、5時間近くかかりましたね、、、。
 北野天満宮の時点で『先は長いな・・・』と思いましたが(そこで?!)、思っていた以上に体力は消耗しました(苦笑)。が、良いタイミングで歩けて、良かったです。こういうところ、運がいいんですよね〜。
 GWに出かけるなんて十数年ぶりだったかと思いますが、来た新幹線に飛び乗り往復とも座れて、ラッキーでした。4日だからでしょうか、新幹線は空いてましたね。

 北辺こそ、先生の生ガイドで歩きたいです。が、今、正反対の場所を歩いているわけで・・・何回後(=何カ月あるいは何年後?)になるのでしょうか(笑)???次回はそのタイミングでの参戦でしょうか・・・。
 「2000年から、12周め」とおっしゃっていました。1年で1周ペース? うーむ、だいぶ先の予感。

 ご本は、本当にありがたいガイドでした。このガイドがなかったら見落としている個所多数確実ですから。
 この御土居史跡については、人さまのブログや本だけでは理解しがたいものがあります。フィールドワークはおすすめします!



 ワタシが歩いた場所を黒矢印で描いています。
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