三浦一族の和田氏 2003.01.13(月)


 三連休の最終日。天気がいいなぁ、と思い、地図を広げる。
 三浦半島。
 「和田義盛碑」「和田城址」という単語を見つける。私が見ているのは、歴史探索マップといった類のものではなく、都道府県ごと一冊になっている、いわゆるエリアマップ。そこにそんな単語があるのだから、きっと見つけやすく確実にあるのだろう、と判断。三浦市の三崎口へ行くことにする。
 蒲田まで出て、そこから京急線にのる。ちょうど三崎口行きの快特が来て、ラッキー。横浜までは「日常」という感じがする。が、さらに行って上大岡を過ぎると、日常とは違う雰囲気を感じる。故郷の長野とも違う。半島は海につきでている所で、そういう所に住むというのは、こういう雰囲気なのだろうか・・・と、とても抽象的な表現しかできず、情けない・・・。
 揺られること一時間あまり。終点の三崎口で下車。そこから横須賀行きのバスに乗り、3つめの停留所、その名も「和田」で下車。1分も歩かないところに、和田義盛碑がある。
 説明書きによれば、
 義盛は、鎌倉幕府創建の功労者、三浦大介義明の孫に生まれた。三浦市初声町和田を領したことから、和田氏を名乗った。
 頼朝挙兵時に大いに活躍し、その功によって侍所別当に任ぜられる。頼朝、頼家、実朝の3代にわたって仕えた。が、天下を狙う北条氏と対立するようになり、北条義時の挑発と策謀にのってしまう(建保の乱)。
 同族の三浦義村の北条方への寝返りもあり、建保元年、北条氏により滅ぼされてしまう。
 その悲運を偲ぶとともに武勇をたたえ、大正10年にこの石碑は建立されたようだ。
 その隣はお社があり、「天王様(八雲神社)」とある。祭神は、素盛鳴尊。行疫開運の神だそうな。牛頭天王社(本来、インド祇園精舎の守護神で、神仏習合の姿)とも言うそうで、和田の里の鎮守だそうな。
 藤原朝巨大井基五左衛門の勧請だそうな。(→丸写し)
 その碑がある脇の道路は急な坂道になっている。そこをグインと上がると、一面、畑。そろそろ太陽が雲に隠されてきて、風が吹いているという状況で、一面畑という一点に立つと、ものすごく寂しいような、こわいような気持ちになる。この先、和田城址には行くのをやめようか、と一瞬ひるむ。が、勇気を出してそのまま道なりにまっすぐ歩き、つき辺り、車の往来がある通りを左に折れる。
 その道路、車の往来があるとはいえ、あまり通らない。道路の脇は雑木林のようで、乾燥した草木が風にゆれているザワザワとかガサガサといった音を聞いているのは、とてもこわい。誰か(何か)に連れさられてしまうのではないか、という怖さがある。
 (距離的なことではなく、もはや太陽は照っていなくうらさびしい感じの中を一人で歩くのが嫌で)もう歩きたくないよぉ・・・と思ったころ、和田城址の石碑を見つける。
 和田義盛石碑にある説明書きより、時代的には前のことが書かれている説明書きがある。
 それによれば、
 義盛は、16歳の時に鎌倉杉本城から和田に移った。この和田城址近辺は、義盛の居館があったところ。
 和田を終生の根拠地として、合戦においてはこの地から多くの兵士が出陣したり、ここから食糧が送られるなどしたという。
 居館は跡をとどめていないが、ここを囲むように木戸脇、唐池出口、赤羽根、矢作といった地名が残っている。
 またここは、木曽義仲の妾、巴御前が義盛に預けられてところだそうな。
 巴御前がここで! これは新たな発見で、ちょっと嬉しかった。
 ちょっと前まで、鎌倉時代について、ほぼ何も知らなかったナカジ。遠い、とても遠い鎌倉時代に、だんだん近づいている気配がして、やはりそれは嬉しい。

fin


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