『その時歴史は動いた 上杉謙信・信長が最も恐れた男』
【2007/04/04 O.A.】




 上杉謙信をたたえるために、信長様がダシにされた番組だった・・・。

 謙信は、殺生をしないで国を治めるためにはと、特産品の「青そ」をつかった交易で商業を発達させた。そうして国内発展させれば戦のない安定した国になると思ったものの、武田家におびやかされることになる。信濃北部の豪族から「武田に襲われている」と援軍を求められたのだ。これが川中島の戦いの原因となる。
 また、勝っても領土は広げず、自らを毘沙門天の生まれ変わりと称し、私利私欲で戦っていなかったため、室町幕府や反織田信長な武将たちに頼られた。

 逆に、領土を拡大していった男、信長。
 将軍・義昭を連れて上洛する(1568年)が、それは自らの権力を示すためであり、その後、義昭を追放し、室町幕府を倒すことになる。
 謙信は、信長が幕府を守ると信じたから信長と同盟を結んでいた(1572年)のだが、義昭追放を聞き、激怒した。信長が謙信の領地に近い北陸に手を出したため、懲らしめてやろうと対峙する。=手取川の戦い(1577年)
 この戦いにおいて、謙信は「長篠(1575年)のような、柵をめぐらした勝ち方はさせない」と思う。
 夜に弱いという鉄砲の弱点を突く。火薬は水にも弱いため、夜の雨を狙う。暗闇でも敵味方の区別がつくよう、合言葉を用いる。そうして、手取川を渡ってきた織田軍に攻め入った。信長軍は退却するにも雨のために川が濁流になっていて、溺死者が多数。謙信のカリスマ的統率力、軍事的才覚により、この戦いは圧倒的に謙信が勝った・・・。
 謙信いわく、「戦ってみると、信長は存外に弱い」。

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 ところがこの戦の後、謙信は春日山城の厠で倒れ、死亡(1578年3月18日)。
 信長を押さえて上洛しようとしていた作戦は中止となり、本願寺・毛利といった信長包囲網も、謙信という中心力を失い崩壊。戦国乱世に終止符は打たれなかった・・・。

 信長様好きなナカジでさえ、「謙信、"義"で生きた素晴らしい人だ! 謙信に比べたらガキみたいなもん?」と思ってしまった。
 なにか信長様に恨みでもあるんです?という構成の番組だ。しかし、これは謙信の一部に焦点を当てた、美談に仕上げたものであって、謙信も信長も、それほど大きな違いはないのだ。





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