『その時歴史が動いた〜真説 桶狭間の戦い〜』
【2007/07/11放送】




 領民をまとめる組織力(今川)と独自の組織力(織田)の戦いだったことを、今川の視線からも眺めた番組。
 義元は、お歯黒があり軟弱で、貴族っぽいイメージがもたれているが、広大な領地をおさえていたわけで、優れた、改革的だったことを示す、名誉回復的内容でもある。
 ではなぜそんなイメージを持たれていたかといえば、財力を頼って京都から貴族がやってきていたので、貴族っぽい生活をしているのではないかと思われていたようだ。





 今川家と織田家の確執は、信長の父の時代からあった。

 「今川仮名目録追加」というこの時代の法令のさきがけとなったものがある。ここで、主従関係(寄り親、寄り子)が大切にされ、寄り親は今川への奉公を第一とし、寄り子もそれに従うということが書かれている。義元→各地家臣を寄り親→農民である寄り子という指揮系統を作ったのだ。
 他の寄り親の下で手柄をたてても見返りはないという説もあり、結束を強くしていたものと思われる。

 一方、挑む織田信秀(信長パパ)。文武に優れていて、尾張の実験を握ることになる。  その二つの家が、互いの間にある三河をめぐって、争ったのだ。

 小豆坂の戦いにおいて、信秀率いる織田軍は、しゃにむに突撃した。それに対して今川は、組織力で整然と挑み、ついに織田軍を敗走させた。

 また義元は、安祥城を攻めた際に、当時としては一早く導入した鉄砲を用いた。
 この革命的な戦術で、安祥城を攻め落とされた信秀は、三河から撤退せざるをえなく、その3年後に亡くなった。

 義元は、三河をおさめ、当然にその先を狙う。
 が、英才教育を受けていた信長の存在を気にしていた。
 14歳の信長(義元の15歳下)が初陣で三河を攻めた際、火を放たれ、夜通し攻撃され、ついに今川が敗走させられたという経験があったのだ。


 信秀亡き後、19歳で尾張を率いた信長は、今川の組織力に目をつけた。
 しかし、19歳である信長は、父の代からの重臣や農民にいたるまで自分が束ねることはできないと思っていた。そこで、重臣よりも同年代の若者に目をつけ、そういった若者と時を過ごすようになった。嫡男以外で家を継げない、あるいは、身分低く織田家で重用されていない人たちだったが、この中から前田利家や滝川一益が出てくるのだ。
 また、義元が一早く導入した鉄砲を我が物にしようとし、そしてその攻撃術をいかす戦術を探した。
 このように、今川の形に独創性を加え、今川とは違う組織力を強めたのだ。
 (すごいよ、信長さま)

 今川は、ついに尾張に入り、知多半島を取る足がかりとして、村木城砦を築いた。
 これに対し、信長は、自身の組織力・鉄砲術を初めて試すことになった。
 信長は、村木城を襲い、鉄砲隊に絶え間ない銃弾の攻撃をさせた。これは今川の意表をつく攻撃だった。これにひるんだ隙に、信長の若い精鋭軍団が城壁をのぼり、この猛攻に今川は降伏した。
 織田家を継いで2年、初めての勝利を治めた。
 「数で劣っても、能力あるものが結束すれば力を発揮する。」
 (信長さまらしい、素晴らしいお言葉。)
 戦い後、信長は兵へのねぎらいをきちんと行った。
 (さすが、英才教育を受けている人はやることが違います。)





 尾張攻略の出鼻をくじかれた義元は、「次は総力をあげて討つ!」と領国に動員をかけ、数と組織力で討とうと決めた。

 永禄3年5月19日、義元は尾張に向けて25000という大軍を率いて出陣した。
 信長の家臣に、寝返りを進めた結果、いくつかの城をとりこみ、清洲城を攻める手配を着々と進めた。
 そして、敵を眺められる絶好の場所である桶狭間山に本陣を置いた。
 ここで義元は、大軍を生かして軍を分散させ、城をしらみつぶしに攻める作戦をうちたてた。

 今川が各地の城を攻め落とし始めている報告を聞いた信長は、立ったまま湯漬けをかきこみ、清洲城を飛び出した。
 信長は、その攻められ方から、義元の分散作戦をよんではいた。

 分散した今川軍では、乱取り(略奪)で持ち場を離れ、兵が周辺村々に散るという、思わぬことがおきていた。最初のとりでを攻めとった勢いが寄り親、寄り子の気を緩ませていたのだ。
 信長はこれを聞き、桶狭間手前まで3000の軍をすすめた。
 「ここからは2000だけで進む!」
 有能な精鋭軍団を組織し、全軍を前に号令する。
 「的が大軍でも恐れるな。敵は勝利におぼれている。おのおのの手柄ではなく、ただ勝つことだけを考えよ。」

 桶狭間を攻め始めるが、倒す敵はいなく、手ごたえがない。人心の油断は本陣にまで広がっていたのだ。
 勢いゆるめない信長は、輿にのって逃げる300の軍勢を見つける。
 「旗本はこれなり、これへかかれ!」
 果敢に抵抗する義元だった、ついに首を渡した。





 義元から学び、創意で築いた信長の組織。信長は義元と対戦することで育てられたのだ。
 そう、敵は自分を育てる!

 信長は戦死者を弔う塚をたて、それに義元塚という名をつけている。
 また、義元の首は丁重に扱い、僧侶にもたせ、送りかえしている。
 これらは、信長の義元への敬意の現れと見られる。





 なんて紳士な信長さま。
 そして敵から育てられたということをきちんと認識して、粗略にしないことで受けた恩を何らかの形で返したりしている。
 財閥のお坊ちゃまとか御曹司は、組織のトップに立つべく文武両方の教育を受け、たくましく育ち、下の人間に対する気遣いも忘れない人間となるのだ。





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