全国歴史研究会 本部会員懇親会
『信長・秀吉に愛された戦国武将堀秀政の生涯』
【2009/09/07講演】




 番外編で、講演会のレポートです。

 この講演の一週間ほど前、あることを調べていたらひっかかってきました。
 全国歴史研究会の、本部会員懇親会。
 そんな会があったんだーとボーと眺めつつ、堀秀政が主役ということで目が大きく開き、会員でなくてもいいみたいなのですぐに申し込みました。

 土曜日の昼さがり、銀座の人の波はプランタンに向かいますが、ワタシはその裏のビル地下へ。

 50人ほどが入る会議室に、予想していましたが定年迎えて悠々自適っぽいおじさま、おばさまがいっぱいで、みなさん、そんなに秀政好きなの???と驚きました。


 講師は、全国歴史研究会本部運営委員の竹村紘一さん。

 「...堀秀政と長谷川秀一は非常に有能で、信長の覚が高かった。一方、秀吉との関係もよくて、ご機嫌伺いが大変な信長との間を周旋していた。そんな二人が本能寺を逃れられたのは、運がいいのか、何か察して本能寺や二条城には行かないようになっていたのか・・・というのは、二人は秀吉から重用されたんですね。しかし秀政は小田原の陣で病死し、秀一も病死している。この時代の病死というのは非常に危険で、用済みによる毒殺がありえるんですね。なので、秀政も秀吉から疎まれ、暗殺されたんじゃないかと、そういう見方もできるのですが、資料がない。しかし、"オレのことを調べてくれ"って秀政から言われている気がして、だから、調べてるんですが...」

 この人ヲタクだ!と心底感心しました(笑)。

 秀政のパパは、美濃・斉藤氏に仕えていましたが、後に、1565年(永禄8年)くらいから織田信長に仕えます。
 秀政は12歳で初めて出仕しますが、12歳という年齢から、小姓だったと思われます。その小姓時代に、奏者番や軍伝達などをつとめ、また、副状を発していることから、まずは文官として相当優秀だったことがわかります♪
 武人としては、小谷城攻め、越前一向一揆、荒木村重攻めで戦功をあげます。もう、文武両道として、信長から相当かわいがられていたのです♪
 伊賀攻めでは北畠信雄とともに大将を務め、戦功をあげています。
 武田攻め後、秀吉の軍監として備中に赴きますが、そこで、本能寺の変がおきます。
 信長に近侍していたら、本能寺か二条城で戦死していました。運が良かったと一言では言い切れず、京都にいなくていいようにされていたのかもしれません(>_<)
 そのまま秀吉に属し、山崎の合戦(天正10年)で光秀を討ちます。
 この戦いで、秀政の家臣(身内)が、「その山登るべからず」といさめたことから、前をゆく堀尾勢が崩れても影響を受けず、横から攻め込むことで、明智の将、松田政近を討ったといえます。
 殿が亡くなった後の清洲会議。
 秀吉は信長の孫の三法師を抱いている、山崎の合戦で勝利している実績、丹羽長秀が味方しているということに加え、秀政の人望によるネゴがあったことで、多くが秀吉の味方になった、とされています。しかし勝家は納得いかず、天正11年、勝家と秀吉による賤ヶ岳の戦いになります。このときの軍功も秀政は高かったようで、家康から秀吉に、そんな評価をする書状が送られていたそうです。
 天正12年、秀吉の圧政に耐えきれなくなった織田信雄が家康にヘルプを求め、秀吉と戦います。
 九州攻めでも、次々と敵を落としていくため、「敵が弱すぎて我ら常に戦っていないといけない状態。少し兵を休ませながら行きたいから、それまで城を持ちこたえていてね、とオレが言ってる、と伝えろ」と生け捕った九州の兵を解放します。
 う〜ん、秀政が、そんなうぬぼれた物言いをするだろうか?とはなはだ疑問ではありますが、武勇を伝える話となっています、、、。
 そして終焉の地となる小田原攻め。
 天正18年(1590)、左備の大将として参陣します。
 箱根口を攻めあがり、山中城は陥落したので小田原早川口まで攻め込み、海蔵寺に陣をしいたそうです。
 が、疫病でお亡くなりに。
 この時代の疫病というのは怪しいそうで、用済みになり毒を盛られたのではないか、という話が、新しい気づきでした。
 信長と秀吉の間をとりもっていた秀政は、本能寺を逃れた、秀吉のもとで重用され、人望も厚かったので、小田原時代の調子にのった秀吉にうとまれてもおかしくないかもしれません。

 嫡子・秀治も秀吉への侍従を命じられ、慶長3年(1598)、春日山へ栄転しました。その秀治も、31歳で病死。どうやら若死にする家系のようです。
 堀家は、お家存続のために、身内みんなが協力して、支え合い、頑張ったという印象が強いです。
 関ヶ原の際、直政(秀政のいとこ/天下の三陪臣の一人)と直政の庶長子・直寄とで、東西どちらにつくか、ということを家中で表立って論じたそうです。
 秀吉方につくことを主張(するフリを)する直寄に、直政は、「秀吉に恩顧はあるけれど、そもそも織田家があってこその堀家。秀政は常に織田家の行く末を心配していたではないか。ここはオレの判断に任せろ」と家康についたのだそうです。
 結果、秀政の次男・親良とその子孫が徳川家に仕え、信濃飯田藩に大名として存続し、堀氏の名跡を伝えたそうです。秀政の弟たちも、それぞれに家を残しています。

 う〜ん、格好いい、秀政!
 そして、堀家、すごい!


 講演を聴けてよかったです。
 秀政好きとしてこの講演に行き、しかしBLネタにしているからちょっと引け目を感じる部分があったのですが、竹村さんは寵童であったことを否定せず、そして幅広くおもしろい感覚をお持ちの方だったので、より、妄想が広がりました。
 秀政がワタシを呼んでくれたんですね☆





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