『THE 戦国グルメ』
【2010/02/11放送】




 群雄割拠の時代、戦国武将たちを支えた食。腹が減っては戦ができぬ!という、戦国グルメの特集。食文化史研究家:永山久夫氏がオブザーバーになっている。


 1件めに訪ねたのは、「OLD HICKORY」(小田急 東林間駅)。石釜で焼かれるピザの有名店。
 提供された、ピザ・マルガリータ、パエリア、ドリア。
 この中で、大分・臼杵(大友宗麟)の郷土料理になっている西洋料理はどれか。
 それは、パエリア。
 臼杵市・小手川商店でゆかりのものが食べられる。当時、サフランはなかったため、くちなしの実で黄色いご飯を炊き上げ、「黄飯(おうはん)」と呼ばれていた。
 黄飯定食が食べられる。



 米を持つ謙信を、米を持たない信玄が奪おうとしたことが、川中島の戦いのきっかけとしている。
 謙信は、普段は質素だが、戦のときには食事を振舞った。それは、勝ちどき飯と言われ、上越市・松風園で再現されている。歴ドル・小日向えりさんがリポート。
 砂糖と醤油がない時代、くるみで甘みをつけたり、海草で煮込むことで味わいを深めたり、現代には良い教訓が隠されている。
 えりさんが食べる手が震えているのがよくわかります。食べるのは、緊張しますね・・・。

 信玄の食をリポートするのは、AKBメンバー。
 積翆寺温泉・要害で、ほうとうを。米がない代わりにほうとうでエネルギーを生んでいた。
 戦場で信玄が刀で作ったから「宝刀」から「ほうとう」になったとも言われる。

 そしてクイズ。
 出陣の際の「三献」を食べる順番は? →1.あわび 2.勝ち栗 3.こんぷ
 「敵に討ち勝ち、よろこんぶ」という語呂合わせとか。しかしこの順番でないとホントに負けると思われていたらしい。



 戦国一の美食家と言われた伊達政宗。もてなしを身上とし、献立を考えていたらしいが、いつもいいアイデアを生んだのは、厠だったとか。小日向えりさんが仙台を訪問。
 政宗が初めて、仙台に味噌蔵を造ったのだ。
 その仙台味噌に漬け込んだ牛タンのお店、「杜の都 太助(新宿店)」へ。

 クイズ。
 南魚沼にある最上山関興寺。関東、関西への中継地となっていたため、防衛の要として、謙信が保護した。
 ここには修行僧にとって大事な栄養源だった味噌が保存されていたが、謙信からもらった経本を、修行僧たちは味噌樽に漬けてしまった。それはなぜか? →焼き討ちの火から経文を守ろうとした。
 お経を守った味噌として、今でもなめると功徳があるとされている。  城を造るときには味噌樽を作ったそうで、その効用が、一つは食、一つは火避けだったからだそうな。



 信長の湯漬けのおかずは焼き味噌だった。味噌は頭には良いのだが、塩分の取りすぎになっていた。
 秀吉は、麦飯に味噌汁というシンプルな食事だった。しかしその食事に、ハピネスエキスがたくさん含まれていたそうな。
 家康も質素で、晩年まで麦飯を食べていた。よく噛む=血液循環がよくなる=客観的思考となる、頭の良い人。しかし、天ぷらに手を出し、食中毒で死にいたった。
 しかし、食中毒に至る食材ではなく、食べすぎで胃に負担がかかり死んだという新死亡説がある。
 その天ぷらを、「てんぷら 石原」(北青山)で。
 当時の天ぷらは、かやの油が使われていた。それを手に入れるために京都へ行ったえりさん。
 京都の天ぷら屋さんの紹介で、さらに高野山へ。
 櫻池院(ようちいん)にそれはあった。
 ここでしか出せない精進料理用の油に、大切に使われてきたもので、残りは1升ビン5本となっていた。
 高野山で受け継がれてきた料理、「さんぴん豆腐」にしか使えず、しかも一般には提供できないということで、鹿児島の油屋を紹介される。
 そこからかやの実を持っている、熊本の山を守る方のお宅へ。
 そして青山へ持ち込み、天ぷらとなる。



 食を通してみると、グッと戦国時代が身近になりました。






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