全国歴史研究会 本部会員懇親会
『戦国の華 浅井三姉妹の波瀾の生涯』
【2010/12/04講演】




 番外編で、講演会のレポートです。

 歴史研究会<平成22年>第6回/第178回本部会員懇談会に、会員ではないですが、参加。
 竹村紘一さんの講演を聴きたくて。


1)浅井家とは

 三姉妹に入る前に、浅井家とはどんな家だったかを知ります。
 室町幕府の守護大名ではなく、土豪レベルの家だったのですが、京極氏に仕官することで、力をつけていったそうです。
 京極氏は応仁の乱の際に、お家騒動で勢力を失い、家臣が分裂しますが、その一方が長政の祖父・亮政にあたります。その時点で、国人である阿佐美氏の方が地位的には上でしたが、阿佐美氏は反感にあい、あるいは亮政が仕組んだことだったのかもしれませんが、追放され、亮政が台頭します。

 亮政の息子・久政の時代。
 長政は、浅井賢政(かたまさ)という名前を六角氏からもらったことがあり、六角氏重臣の平井定武の娘を嫁にとります。その娘との間に息子・万福丸(三姉妹の長兄になる)がいたとされますが、消息は不明です。
 その後、六角氏から離れたく、妻を離縁させ、六角氏と戦い、これに快勝。早く長政に家督を譲れ云々という話になりますが、そんな中、両者の利害が合って朝倉氏と同盟を結びます。

 長政の姉、洗礼名・マリアは、京極高吉に嫁ぎ、京極高次(お初の夫になる人)、京極高知、京極竜子(三姉妹のいとこ)を産みます。

 高次は、山崎の合戦では明智方に、賤ケ岳の戦いでは勝家方につき、つまり秀吉に2回も逆らっていることになるのですが、生き延びたことには間に入った竜子が活躍(秀吉の寵愛を受けていた)したことがうかがえます。
 逆らったにも関わらず、大津城を与えられ、三姉妹のお初が嫁ぐことになります。
 関ヶ原の戦いの時、西軍から要請がきますが、後に東軍になり、またもや秀吉(というか豊臣家)にそむく形になります。
 大津城は立花・毛利ら西軍から攻めたてられ、ついに城を開け、高次が高野山に入ったところ、関ヶ原の決着がつき、東軍が勝ちます。そして、「よくぞ大軍を関ヶ原に出さなかった」と、評価されます。家康から、高野山から降りるように言われ、その後、若狭の小浜に城を築き、大名になります。


 女性が、それぞれいろいろな人と関わり、それぞれが嫁いだ家の再興や生き残りに深く活躍していることが伺えます。


2)秀吉の登場

 信長の時代、秀吉は美濃攻めにおいて、竹中重治(半兵衛)を自分の家臣とするとか、交通・戦略上の要地である墨俣に一夜城を築くとか、美濃三人衆を引きいれるなど、超活躍します。
 若い時は、人を殺さずに調略で攻略していった秀吉ですが、晩年、小田原攻めあたりから、狂っていきます。


 15代将軍になる義昭は、13代・義輝が松永久秀らに殺された時はお坊さんとして生活していました。
 14代将軍として、義栄が松永や三好三人衆らに擁立される一方で、細川藤孝ら幕臣に義昭は保護され、妹婿のいる若狭・武田家を頼ります。それから越前・朝倉家の元へ、幕府再興と上洛を依頼しに行きます。が、一向一揆対策で動けないこと、文化人気質な義昭をかついで京に行く気がないということで、朝倉は動きません。

 その時勢いがあったのが、織田信長。義昭は信長を頼みにします。
 天下への大義名分がたつ信長は、渡りに船とばかりに引き受け、同時に信長は近江をおさえる必要性を感じ、新興の浅井家と同盟を結ぶためにお市を嫁に出します。
 そして上洛。
 この時、松永と三好三人衆が対立することで及び腰になっていた義栄は、よい機会とばかりに、阿波へとのがれ、病死します。


3)滅亡まで

 信長は近江を制圧し、義昭を15代将軍にします。諸大名に、「あいさつに来い」と声をかけますが、朝倉は出てきません。これを無礼だとして、朝倉を討つ名目とします。(この時、朝倉が挨拶に出てきたら、どうなっていたでしょうね? 殿は、朝倉は出てこないことを見越して声をかけたので、出てこられたら逆に慌てた?(苦笑))
 浅井は、「古い同盟がある家だから、もし、朝倉を攻めることがあればご一報ください」と言っていましたが、何の報せもなく信長が一乗谷を攻めたため、織田家に反旗をひるがえすことになります。信長は金ケ崎において、前方から朝倉軍に、後方から浅井家に、攻められることに。
 これは、浅井家にとって「詰めが甘かったのではないか!」と言われるほどの勝機だったらしく、こういう勝機に勝てないと、やはり負ける、と・・・。(ビジネスでもそうですね。攻め時、というものがあります。)

 逆に、九死に一生を得た信長は怒り爆発。
 ガシガシ攻め続け、その浅井攻めのリーダーは秀吉がつとめます。
 朝倉は比叡山に軍を入れますが、信長は朝廷を動かし、朝倉の機を外します。そして、朝倉が越前に戻る機会を狙い、信長は攻めます。(この辺の機の狙い方、攻め時を自分のものにする・・・さすが、殿です。)
 返す力で浅井家を攻めます。
 浅井長政が自害し、その後、お市らがどんな9年を過ごしたのかは、資料がないので不明です。

 織田、浅井、ともに互いを「裏切ったやつ」と思いますが、どっちもどっちというか、、、戦国の世だし、、、。

 信長が死に、清州会議で、お市が勝家に嫁ぐ話が出ます。
 信長生存中に、この話はあったとされ、勝家と秀吉の奪い合いというよくある話は想像の域のようです。

 賤ケ岳の戦いにおいて、いよいよ最期と思った勝家は、お市に、城を出るように言いますが、お市は一緒に死ぬことを選びます。
 勝家は、天守閣の上で切腹、はらわたを出したとされますが、そう例えるくらいに勇猛さはあったと思われます。
 現在の小説であらわされる行動は、「と思われるくらいに勇猛だった」とか「とされるくらいに常軌を逸していた」といった文章がつくのでしょう。


4)なぜ豊臣家がなぜほろんだか

 徳川との間で政略結婚が行われ、、両者は仲良くしたかったものと思われます。しかし、豊臣には有力な外様が多いし、難攻不落の大阪城もあり、また、関ヶ原の残党も多く残っていて、これらに徳川方が危惧したのではないかと。
 次第に天下の趨勢は徳川とみられるようになり(そう、仕向けられていった?)、豊臣はそれに従うことをよしとしなかったプライドがある。参謀がいなかった淀殿は家康の参謀たちにやられたともいえます。
 しかし、名門はそう簡単には滅びず、豊臣の血も、また木下の血も、現在に引き継がれているわけです。秀吉の生家である木下は江戸時代に大名になっています。(スゲェー、と深く思いました・・・。)


4)まとめ

 信長の血が現在まで生きていて、自分の血で天下をとった!といえる講演でした(笑)。それは長政の血も生きてるということなんですけど。なので、浅井家は徳川家につながることもあり悪くは言われませんが、朝倉家は悪く言われることが多いです。

 運命に翻弄され、果敢に生きた三姉妹は、いろいろな人と関連し、家を助け、悲劇的に、しかしまた華麗に生きてきたことが見えてきます。他家にこんな状況はなく、時代を見ることができる、とてもおもしろい三姉妹の置かれた状況だと思います。
 三姉妹といとこの関係(長政の姉の子)にあたる京極竜子も大活躍しており、聡明な女性たちが時代を引っ張っていったともいえます。


 ワタシが何よりもしっくりきたお話は、お市が勝家に嫁ぐ際の話。
 これまでは、勝家と秀吉との不仲から生じたお市の見受け話的に捉えていましたが、信長が生きている時から、お市を勝家に嫁がせようという話はあっただろうという見解に初めて接しました。(想像すらしなかった!)
 勝家は古くからの重臣であるから嫁ぐ先にふさわしいだろうという話があったということです。
 殿がお市を心配していたことがうかがえ、また、大事に思っていただろうことも推測されます。





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