歴史スペシャル
『揺るぎなき茶聖 千利休 信長・秀吉を支えた天才』
【2010/12/31放送】




 経済界や政界に、千利休を尊敬している人は多いらしい。利休が生涯を通じて本当に伝えたかったことは何か。という番組。


 茶の湯を武器にして人心掌握していった凄みがある。利休を知ろうと思うならば堺を知らねばならない。


◆堺と利休

 魚問屋だった利休の生家。父親が亡くなり稼業をついだが、17才で、社交のたしなみとして茶の湯を習い始めた。19才で武野紹鴎に弟子入りする。
庭掃除をしちえた利休が、枯れ木をゆすって葉が落ちるさまを楽しんでいるのを見て、弟子入りを決めた。

 18世紀、堺は東南アジア貿易の拠点になった。
 特定の戦国武将の支配下にはなっていなく、宣教師からは「日本にある金銀の大半がここに集まる」と言われる裕福な町だった。
 金属鍛冶が盛んで、種子島に伝わった鉄砲製造の方法が伝わるのは時間の問題で、それから間もなく、日本一の鉄砲生産地となった。

 茶室では武器の売買交渉が行われ、堺が、軍事的・経済的拠点になっていく。堺を制するものは日本を制する、と言われるようになり、だから信長が制圧したのだ。


◆軍師として

 1568年、信長は上洛した。
 翌年には堺に、2万貫(10億円)を収めるように命じられる。
 信長が目をつけたのは、鉄砲の生産地であり、軍事産業に携わっている堺商人を手名づけるためだったが、茶器名物が国ひとつ分の価値にもなっていた茶の湯にもあった。
 名物として茶器がなぜ珍重されたのか。
 より有名な人が持っていたとか、将軍が持っていたというものはありがたがられ、道具に付加価値がつく。付加価値も含めて金額に換算されるので、値段があがる。義満、義政。村田珠光、信長が持っていったといわれる「つくも茄子」は価値がどんどんあがっていった。
 名物を集めた部屋で堺商人を招くことで良好関係を結び、名物を家臣に恩賞として与えることで結び付ける。

 「茶の湯政治」。

 信長は許可なく茶会を開くことを禁止した。茶会を開くことは最高の褒美であり、恩賞として茶会を開くことを許された秀吉は喜んだといわれる。

 信長は、茶頭に今井宗久、津田宗及、千利休を命じる。
 まだ魚商人だった利休がなぜ茶頭に命じられたか。
 それは卓越した技術があったからで、当時のスーパースターを手元に置くというのが信長の手法だった。
 利休はもともとは商人なので、信長が喜びそうなことをやってみせ、そうすると二人の距離は縮まっていく。
 越前を攻めた信長に利休が鉄砲の弾を送り、それに対し感謝の書状を出しているように、軍師としても活躍したのだ。
 また、蘭奢待のかけらを利休に与えたことから、相当信頼していたことが伺える。


◆フィクサー
 本能寺の変で信長が倒れ、秀吉が天下をとると、秀吉は利休を筆頭茶頭にした。 姫路城での茶会で初めて会ったが、その手際に感動していた秀吉。身分の低い身から出世していった、無から有を生んだ秀吉は、利休の天才肌・凄みにひかれていったのだ。
 秀吉政権において、「内側のことは利休に(幹事長的)、外側のことは秀長が(官房長官的)」相談を受け、秀吉にとりなしていたことが伺える文書がある。
 また、利休の言葉に秀吉は耳を傾ける、とも書かれている。
 茶人という立場を超え、側近として存在していた。


◆イベントディレクターとして

 1585年、秀吉は、本来天皇しか開けない禁中茶会を開く。
 利休は商人なので、宮中にはあがれない。あがれるように、僧侶に準ずる利休という名をもらったのだ。
 秀吉は、御所に黄金の茶室を作るなど、さまざまな茶会を催した秀吉。
 それを演出していたのが利休。
 もっとも盛大だったのは、北野大茶湯(北野天満宮)。聚楽第の落成を祝い催された。太閤井戸と石碑が残っている。
 さまざまな茶席が800以上催され、身分制度が厳しかった時代だが、誰でも参加できたのが特徴。身分は問わないので、水さしひとつ持って参加すればいい、と看板がだされた。しかし、七日間開かれる予定だったが、一日で終わってしまった。いざ開催してみたら、民衆の力が盛り上がる様をみて、茶の湯の力にたじろいだのではないかと思われる。

 北野大茶湯を成功させた66才の利休は、このころから、質素なわび茶を極めて行くようになる。
 頂点に達したからこそ、権力、金銭から遠ざかり、自分の美意識だけを大切にしようと思ったのではないか。

 まず、茶室が質素になった。
 「にじり口」を採用。狭い入口で、刀を下げないと入れない。身分を捨て、中に入ったらもてなす側ともてなされる側の関係のみ、という意図があったのではないか。
 茶室という空間だけでなく、茶杓など、小モノについてもデザインしていく。
 茶道具ではないアイテムも茶道具として使用するようになる。たとえば、桂川籠(魚をいれるかご)を花入れにしたり、ひょうたんを使った花入れを作ったり。
 また、豊臣家の家紋をシンプルな線画に単純化したのも利休だった!!!
 「かたちをいじるのではなく、価値をかえる。」


 空間プロデュース、舞台演出家、アートディレクターなどなど、影響はいろいろな分野に現れ、料理界にも影響を及ぼしている。
 懐石料理は利休が作ったものが元になっている。質素だけど心づくしの懐石料理。旬の一番おいしい時に、温かいものはあたたかいうちに、冷たいものは冷たく、供する。本当の贅沢なのではないか。

 お菓子もつくっている。
 茶会のお菓子に、「麩の焼き」を一番使っていた。少しでも甘く感じるものを、と砂糖が貴重だった時代に、栗や煮しめたしいたけを使ったり、創意工夫が和菓子に伝わっている。

 利休鼠という色、利休型のくし、おはし、扇子などなど、利休と名がつくものは現代に残っている。


◆晩年

 晩年は秀吉との確執だった。
 大徳寺の山門建設にあたり、利休は私財を投入した。そのお礼に利休の木造がたてられたことが秀吉への不敬に当たると、切腹を命じられたのだ。

 切腹という亡くなり方は、より、利休が強く印象づけらえた。


◆利休が伝えたかったことは

生と死が隣り合わせの時代に、その生活の中にお茶がある真剣さ、緊迫さ。
「周りの価値観に惑わされるな。自分を信じろと、自分の信じた美意識に従い、強く生きろと、残しているのではないか」と。。。

 それは、信長自身も持っていた価値観と同じではないか。晩年を信長と過ごせていれば、信長は早くに討たれなければ、利休の在り方は違っていただろうな。信長が本能寺で討たれたことは、やはり、惜しい・・・。





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