『魔王が棲む魅惑の城 〜最新研究!織田信長 美しき城づくり〜』
【2012/11/14放送】
信長が拠点にした城を中心に、彼の軌跡をたどろう=同期しよう、という番組。
カレ、22歳:
那古屋城から清洲城に移ります。
清洲城は川を利用した水堀が要塞になっていたのですが、裏を返せば悪天候による水害も起こるということ。治水に苦労した信長は、尾張の平地には珍しい、標高50メートルの小山に城をたてることにしたのでした。
カレ、30歳:
初めて自ら築いた、小牧山城。
当時誰も思いつかなかった斬新な城です。というのは、城下から頂上(信長の館)まで「大手道」と言われる5.5メートル幅の一本道があるのです。
当時は、頂上(大将のいる場所)まではクネクネと、なかなか辿り着けないようにしておいたのが常識なのです。
小牧山城における近年の発掘調査で、大手道の両側には山の地形を変えるほどの盛土がされていたことがわかり、そこには、家臣の屋敷を置いていたようです。
頂上に信長の館があり、その下に家臣の屋敷群が広がる・・・防御だけでなく、ビジュアル的にヒエラルキーを魅せたお城だったのです。
また、小牧山周辺からは鍛冶職人が持っていたものなどが発掘されています。商人や職人たちも住まわせていた・・・つまり、城下町の元祖であり、現代都市の源ともいえるお城だったのです。(殿、スゲー)
この、いろいろな意味で見栄えのある小牧山城で、尾張での勢力を広げました。
カレ、34歳:
西に眼を向け、斉藤氏を破って、岐阜城に入ります。
ここからは360度、濃尾平野の絶景を一望できます。
ここも発掘調査が盛んです。
区画が作られていて、区画ごとに建物がある屋敷群があったことがわかったそうです。
また、池の周囲を飾っていた州浜や滝が流れていただろうことを想像させる跡があったようで、庭園として客人を招く場所にされていたことが想像される場所もあるようです。
そして、なんと、屋敷群は地下通路でつながっていたと思われる遺構もあるそうです。(なんじゃそれッ!)
フロイスによる「イエズス会日本報告集」には、岐阜城における信長のホストぶりが書かれているそうです。
「信長と茶筅丸が直々に食膳を運んできてくれ、その際には優しい言葉をかけてもらった」のだと。
山頂の尾根と尾根を結ぶ部分は盛土がされ、石垣が作られていますが、その石垣は当時のものとされています。
信長の館から尾根が結ばれたところには家臣の有望な子を住まわせ、人材育成をしていたと。絶景を見せ、展望を話す・・・天下取りの礎にふさわしい場所だったのでした。
次の目標に対して何をすべきか、を常に考え、ゆえに引越しをしてきた信長殿。
カレ、43歳:
反信長勢力の中心地にある琵琶湖に、巨大な船の城を作らせました。
その船は、規格が同じ板を一気に作り、つなげるという、当時では革新的な作り方だったそうです。
動く城は見栄えはするし、敵方は驚くし、鉄砲攻撃もでき、圧倒的な存在感でした。
そうして、義昭軍はダメージを受け、浅井・朝倉連合軍もダメージを受け、反信長包囲網は崩れたのでした。
都へ向けて、安土城を築城。
近畿を手にした信長は、安土城を築城。
小牧山城の大手道を導入し、岐阜城の区画や屋敷群、迎賓館も設け、過去の城の集大成的なものとなります。が、さらに新しく、が信長であり、それが、天守閣のさきがけとなった天主でした。
今でこそ、安土城の周辺は田園風景が広がっていますが、昔は、水。船をつけることができ、家臣に作らせた琵琶湖周辺の四城(大溝城・長浜城・坂本城)で、危機があれば相互補完的にのりきろうとしたのでした。(琵琶湖上、船で行き来できる。)
が、明智光秀に討たれ、あともうちょっとのところで、この世を去るのでした。
殿の世界を、見てみたかった・・・。
岐阜城からの眺めは本当によくて、殿もこれを見ていたと思うと、だいぶウレシイ。
どの城も空撮があるのですが、本当に山の頂にあって、そんなところに建てる信長って、オモシロイ! ヤンチャな子供ですね(笑)。
頂からの景色を眺めつつ、天下を手中に入れることに燃えたのだろうな、と想像します。
城の移り変わりで殿の歴史を見る、とてもおもしろい番組でした。
居城を移すことすら誰もやっていなかったこと。普通のことを変えていくことって、どれだけ大変か。
それは現代人の日常でもそうですよね。なかなか変えられないものです。
やっぱり信長は偉大な人です。
ところで。
信長が琵琶湖に浮かべ信長包囲網を破っていった大船・・・?って・・・何のことだ?!と戸惑いました。
鉄甲船のことなのか・・・でも鉄甲船は包囲網より後の話ではないか?とか・・・もしかしてワタシは今日まで知らないできたのか?!と、少しばかり焦りました。
どの本を見れば載っているか・・・と自宅でなにげに取り、パッと開いた箇所が、その説明をしてくれていました!(スゴいです、ワタシの勘/^^;)
以下、藤井先生の本『ドキュメント 信長の合戦』+ワタシの記憶です。
『信長公記』によると、水軍を用いた戦闘を行った記録は、1573年2月の今堅田の戦いで、舟の周囲を板ではさむという防御壁を持たせた"囲舟(かこいぶね)"を利用した、というもの。
武器については、火矢・鉄砲を用いていた模様。
その後、初めて軍事用に軍船を造った記録が、1573年5月。
浅井長政との戦いの際、琵琶湖を利用した「大船」を佐和山の湖畔で造らせた。
後に安土城の大工棟梁となった岡部又右衛門を頭に造らせたこの「大船」は、長さ55メートル(33間)、幅12メートル(7間)、百挺(櫓/人力)で漕ぐ大型船となった。
ところが木造の船は敵の火を浴びると弱く、本願寺攻めの際に毛利水軍に完敗してしまう。
だったら火に強い鉄で作ればいいっ!と、1578年、九鬼嘉隆に命じて、鉄張りの大型軍船(長さ18間、横6間)を建造させるのがいかにも殿らしい(笑)。
これが鉄甲船。
鉄に対してはさすがに攻めても歯がたたないということで、大阪での本願寺・毛利や雑賀との戦いで活躍したのでした。
しかしこの鉄甲船、実は琵琶湖に浮かべた「大船」よりも小さい。鉄甲船の影が薄れるために「大船」に関する細部検討は避けられてきた感があるよう。
その「大船」にNHKは焦点を当てた、ということですね。
ある意味、素晴らしい。
ちょっと曖昧だった個所でもあったので、理解が深まりました。
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