桶狭間
馬廻衆の報告を聞き、信長はニヤリと笑みを浮かべた。
「時を得たりっ!」
評定中だった武将たちは間の抜けた顔をして互いを見合った。信長の一言は、彼らの意表をつくものだった。
「今川は桶狭間で休憩をとっておる。今こそ出撃じゃ!!」
「ぎょ、御意っ!」
小姓に支度をさせながら、信長は美弥が差し出した湯づけをかきこんだ。
「美弥。ともにまた星を眺めようぞ」
「ご武運、お祈りいたしております」
信長は誰よりも先に馬に飛び乗り、熱田神宮へ向かった。諸将は、弓・槍衆などを引きつれ、遅れをとるまいと信長につき従った。
見送った女たちは、万一にそなえた身支度をする。
お身内が相手だったこれまでの戦とは違う、殿の一歩・・・。
自然、袖をたくしあげる紐をきりりと結ぶ美弥だった。
『ともにまた星を眺めよう』。
戦に立つたびに、信長はそう告げてゆく。
美弥は、輿入れの日を懐かしく思い出した。
*****
信長との対面のために古渡城の一室で待っていた美弥は、どかどかどかと廊下を歩く音を聞いた。これが信長の足であろうと、少し頬をゆるめた。
信長がうつけ者と呼ばれていることは、美濃で生きていた美弥でさえ知っていた。そのため、美濃には美弥の輿入れを気の毒がる家臣もあったが、美弥は悲観してはいなかった。
だって、わたくしはまむしの子ですから。
まむしもうつけも、どちらがいいとは言えない。まむしのように、うつけも何かの例えであろうと、美弥は思っていた。
美弥が頭を伏せて待つ部屋で、その足音は止まった。
「面をあげよ」
美弥はゆっくりと顔をあげた。
「・・・久方ぶり、じゃの?」
そう言って、信長は美弥の真正面に片膝たてて座った。
美弥はにこりとした。
初恋の人との再会であった。
*
勉学にいそしむことなく山野を駆け回る信長を人は「うつけ」と呼び、譜代家臣を落胆させた。
その日も、信長は供を2人連れて、馬を駆っていた。
「殿ぉー、お待ちくだされっ!」
「殿ー! われわれを置いてゆかれますなー」
「ははははは、情けないなぁー。オレについて来られなくば、そちたちはそこで待っておれっ!」
信長は馬に鞭打ち、駆けに駆けた。いつものように、いつしか供の者とははぐれ、勢いで、尾張と美濃とを隔てる川を渡った信長は、一人の少女を見つけた。そこは、さまざまな色の可憐な花が咲き乱れる野原だった。
「そこで何をしておる」
「お花を摘みに」
「おぬし、一人でか?」
「はぐれてしまいました。はぐれたらいつも、ここに来るのです。道はわかりますから、大丈夫です」
信長は、その少女の身につける着物から、どこぞの姫であることは推測していた。が、子供とはいえ敵味方に分けられる乱世、無粋なことは聞くまいと、名を問うことはしなかった。
「差し上げます」
そう言って、少女は信長に花束を差し出した。
「ここはわたくしだけの秘密の場所だったのですが」
「野山はそなただけのものではない・・・」
そう冷たく返しながら、花束を乱暴に奪った。
にこりと笑んでいる少女のかわいらしさに、信長は戸惑い、また、胸を打たれた。そして、一族争いの中にあって、落ち着かないとも、浮いているともいえる身の上を意識しないわけにいかなかった。
母上は信行擁立に加担し、身内には信じられる者がいない。愛してくれる者もいない。
笑みを向けられたことが新鮮だった。
「ここは、夜も、素敵ですよ」
「そなたは、夜、ここに一人でおったことがあるのかっ?!」
「はい」
「怖くはないのか? 悪さをする輩が多かろう。明るいとはいえ、そなたが一人でかような場所に居るのは危険じゃ」
「夜になると、ここのお花は天にあがって、お星様となって輝きます。お星様が見守ってくれますから、怖くはありません」
父、信秀が、尾張を平定した後には、自分と少女とが今いる美濃を攻めるということを、信長は知っている。
「そなたが楽しむ夜を・・・真っ暗闇にはしとうはないな」
「お花がなくなる真っ暗闇は・・・寂しゅうございます」
見つめられ、信長は目をそらす。
「よし、送ってゆこう」
「大丈夫でございます。一人で、あっ」
信長は少女を馬に乗せていた。
「とのっ・・・」
少女は無意識で、信長をそう呼んだ。
「見つからぬよう、そちを送り届ける。かような場所に女子一人で居るでない。いつか・・・毎夜、そなたが安心して星を眺めることができる世にしようぞ!」
馬上で風をきりながら、信長は、薄い着物を通して伝ってくる少女のぬくもりを感じていた。
人のぬくもりは、かように温かいものなのか、と。
全くの他人、しかも少女から、そのぬくもりを感じてしまい、信長は少女を離し難く思った。
このまま尾張に連れて帰ったらどうなるか、信長は想像した。
すると、自分にはまだ誰かを守れる礎がないことに気づいた。
生きるか死ぬかの世では実力をつけてゆくしかないと、手綱を握る手に力を込めた。
人の往来が見えてきた。
「このあたりまで来れば大丈夫であろう」
「ありがとうございました」
「また、会おうぞ!」
そう言うや、信長は野原へと戻っていった。
少女は、その後ろ姿をじっと見つめていた。幼心にも、何かじわっとした熱が帯びてくるのを感じていた。
*
「永久にわしのそばに居よ」
そう言って美弥を胸元に抱き寄せた信長は、「あー、この温かさだ」と安堵に似た懐かしさを覚えた。
真っ赤な顔をしてうつむいていた美弥は、幼いときに、手綱をとる信長にしっかりと守られた感覚がよみがえり、信長を愛しいと思う気持ちが急激にふくれあがるのを感じた。
美弥はそっと顔をあげた。
「そなたを待っていた。今宵はそなたと共に星を眺めようぞ」
*****
「殿は、また星を見せてくださるか・・・」
信長を信じて待つ以外、おなごである美弥にできることはなかった。
「お味方の勝ちでございますー!!」
伝令の叫びが、美弥の耳にも入った。
勝鬨をあげ、沸きあがる清洲城内で、美弥は静かに、また星を眺めることができる喜びに浸った。
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