翼をひろげて








 カーテンが夏の日差しを和らげる。涼しさを運ぶ風を視覚的に感じる。



 「澤田っち?」

 日誌を書いていた澤田は、声のした方に顔を向けた。

 「菊丸くん」

 「澤田っち、一人なの?」

 そう言いながら教室に入った菊丸は、澤田の前の席に、背もたれをかかえて座った。

 「うん。手塚と日直だったんだけど、手塚は部活に追いやっちゃった」

 「へぇ・・・」

 自分のことはきちんと責任を持って行う手塚が、部活があるとはいえ誰かに任せるとは、菊丸にとっては意外なことだった。
 菊丸にとって手塚は、同じテニス部とはいえ近寄りがたい存在だった。全てにおいて自分より勝り、コンプレックスを意識せざるを得ない。バカにされているのではないかとさえ思ってしまう。
 そんな手塚の自分には見せない部分を知り、澤田を信頼しているだろうことを察した。

 「あ、この前ね、不二くんを待たせたときにマネして使わせてもらったよ、"お待たへ"って。」

 「そんなのどんどん使って〜。澤田っちなら全然オッケー♪」

 澤田は、全然オッケーという日本語の使い方が気になったが、それを注意しては手塚と同じだ、と笑った。

 「それにしても・・・澤田っちは不二とラブラブでいいなー」

 菊丸の顔から笑みが消えたため、澤田はからかわれているのではないことを覚った。

 「菊丸くんだって、好きな人はいるでしょ?」

 「えっ?」

 「お似合いだよ」

 「な、何を?!」

 両手をバンッとつき、菊丸は立ち上がった。顔を赤らめ、慌てる菊丸に、澤田は冷静に言った。

 「怖いよね。"好き"なんて言葉にしちゃったら、0か1か、でしょ・・・?」

 澤田は、菊丸が同じテニス部の大石を特別な視線で見ていることに気づいていた。
 菊丸は誰にでもボディタッチをするが、いつからか、大石に対しては違っていたのだ。「好き」という言葉を意識してしまったからか、かえって気軽にはボディタッチできなくなったように見ていた。
 男が男を好きであることに、みなが納得するとは思えない。相手も同じように自分を思ってくれているとは誰にもわからない。告白をしたところで、友達ですらいられなくなるかもしれない。もう一回というチャンスがないのだ。
 菊丸が一歩を踏み出せない切なさを抱えているだろうことは察していた。

 「でもね、菊丸くん。一歩は、何かが進むと思うし、変わらないものだって、存在すると思うよ」

 菊丸はうつむいたまま、言葉を発しなかった。
 澤田は急かせることなく、ただ、菊丸が顔をあげるのを待った。



 日誌を書き終えた澤田がノートを閉じると同時に、菊丸は顔をあげた。

 「ありがとう、澤田っち」

 澤田に笑顔を向け、教室を出ていった。





 「菊丸ー、遅いぞ! グランド10周だ」

 「ひぇ〜、手塚、今日はカンベン! なんて通用しないな・・・」

 委員会でも何でもなく遅刻した菊丸は反抗は諦め、コートを出た。







 グランドを走り終え、菊丸は水飲み場へ直行した。

 「英二!」

 「あ、大石! 大石は委員会だっけ?」

 「そうだよ。英二はグランド走ってたの?」

 「えへへ」

 澤田と大石のことを話していて遅刻したとも言えず、菊丸は笑ってごまかした。

 「じゃ、オレは先に行ってるからな。しっかり水分補給しておけよ」

 「うん」



 菊丸はコートの方へ歩く大石の背中に目を奪われた。
 オレより大きい背中。肩がしっかりしていて、同じ年なのにこうも違うものなんだな、と菊丸は思う。

 蛇口から出る水のコンクリートを打つ音が夏空に響いていた。





 好きだよ。





 大石の背中に向かって、菊丸は自然とつぶやいていた。

 「ん? 呼んだ?」

 大石が振り向いたため、菊丸は驚いた。そして慌てて、出しっぱなしの蛇口を閉めた。

 「ううんっ。何もっ! 何も言ってないよっ!」

 菊丸は、中途半端なことをやってしまったことを悔やんだ。
 大きく否定する菊丸を、大石はまじめな顔をして見つめた。



 「おお・・・いし・・・?」



 大石から見つめられ、菊丸は鼓動が早まるのを感じていた。

 「英二。もう一回・・・言って?」


 「え・・・?」


 「もう一回、言ってくれないかな?」


 「言って・・・いいの・・・?」



 大石は満面の笑みを浮かべた。



 「いいよ」



 「大石ぃッ、大好きだよっ!」

 そう言って走ってくる菊丸を、大石はしっかりと抱きとめた。



 「エージ・・・オレも」

 大石の告白を耳に受け、菊丸は顔を赤らめた。

 「嬉しいよ、大石ィ〜。何もかもなくなっちゃうんじゃないかって、怖かった・・・」

 「うん。でも、これからは二人一緒だから、怖がらなくて大丈夫だよ。あ、エージ。今日、部活終わったらウチにおいでよ」

 「うん、行く行くっ!」

 「さ、じゃあ、早いとこコートに行かないと。手塚にまた走らされるぞ」

 「大石だって」

 「オレは委員会が理由になるからね」

 「ズルい〜」

 二つの影は肩を寄せ合わせていた。



 せみの音がひときわ激しくなった。
 夏が終わると3年生はそれぞれの道を歩くことになる。これまで同じものを見ていたと思っていた勘違いに気づく。
 だから、新たな関係性を生じさせることができる。変わらないモノを信じ、でも、変わることを恐れずに、歩いてゆこう・・・。





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