魔法の呪文(1)
「澤田! ここに置いてあるタオル、洗っといてくれ!」
「はいっ!」
「澤田ーっ! 部費の徴収しておけよ!」
「はいっ!」
澤田美弥は、氷帝学園中等部入学後、男子テニス部のマネージャーとなった。
言われたことは「はいっ!」と元気よく行い、根からの「尽くすタイプ」が幸いしてか、いじめを受けることもなく、部員たちからはかわいがられていた。
「部長! そろそろドリンクがなくなるので、またまとめ買いしてきてよろしいでしょうか?」
「ああ、澤田に任せる」
「あ、先輩! タオル忘れてますよ。あと、レギュラーシャツのボタン取れそうなんで、今日の打ち合い終わったら置いておいてください」
「サンキュー」
「監督! そろそろ後期の部費申請したいので、ご確認とサインをお願いします」
「よし、ご苦労!」
入部後間もなく美弥の立場は不動のものとなり、少しずつ、美弥が指示されるよりも、美弥の方から動いていたり、急かすことの方が日常となっていった。
そんな美弥に、部員たちはよく声をかけるが、中でも美弥の一つ上の先輩になる忍足侑士はよく声をかけていた。
その日、部室へ向かう途中、忍足は見慣れた姿を目にした。
「美弥ちゃん・・・?」
「あ、忍足先輩」
忍足は教室に入り、美弥の前の席に横向きに座ると、足を組んだ。
「何やってんねん・・・?」
机に広げられた書類を眺め、忍足は言った。
「部費の清算を」
「部長に言われたん?」
「そうです。あ、これでも、数字扱うの、好きなんですよ」
「あー、成績表貼りだされてんの見たで。それ見て、部長は目ぇつけたんやな」
「ありがたいことです」
美弥は笑んだ。
「ほな、そんな頑張る美弥ちゃんに、はい」
「えっ」
美弥は、目の前にポッキーを差し出され、反射的に体を少し引いた。
「あげる」
「あ、ありがとう、ございます」
「美弥ちゃん、コッチのチョコついてる方から食べてな。オレ、こっちから食べるで。食べるのを諦めた方が負けや」
諦めなければどういう状況になるのかを想像した美弥の顔がみるみる赤くなった。
「そ、そんなこと、できませんっ!」
「おもろいのに」
忍足はそう言ってポッキーをくわえ、美弥の方を向いて頬杖をついた。
美弥は言葉を返すことができず、そのまま二人は見つめ合った。
美弥は、忍足がくわえているポッキーを人差し指で押し始めた。
押されるまま、忍足はポリポリと食べていった。
あとわずかで忍足の唇に触れる、というところで、美弥は指をはずした。
一本を食べ終えた忍足は、チョコレートがついているために立てている美弥の人差し指をつかみ、舐めた。
「先輩っ!」
「ほな、オレは部活行くな」
忍足は、美弥が顔を真っ赤にして驚いていることなどお構いなしに、美弥の頭を軽く叩くとあっさりと教室を出ていった。
美弥にとって初めての夏休み合宿前、準レギュラーの忍足は3年生の正レギュラー陣相手に試合をやっていた。
自分に声をかけるときの、へらへらした感じが全く見えず、その真剣な瞳、汗に目を奪われた。テニスはよくわかっていない美弥だが、忍足のテニスには優美さと力強さとがあることを感じていた。
感極まった美弥の頬を、一筋の涙がつたった。
連続4試合が終わったころには、美弥は呆然としていた。フェンスにしがみついたまま、しゃがみこんでいた。持っていた監督用の飲料ボトルが落ちるのも気にせず。
「すごいものを見ちゃった・・・」
美弥はつぶやいた。
「忍足と田辺は入れ替え。今日から忍足は正レギュラーだ。以上! ごくろうっ!」
監督・榊の声に、部員たちがざわめいた。
準レギュラーと正レギュラーとが入れ替わる試合は、美弥を奮い立たせた。
美弥は、実力のある者が揃い、「さすが、氷帝だ!」と皆に言わしめる集団をフォローをする末端の一部であることに、感動していた。
「澤田」
コートをじっと見ている美弥は、自身を呼ぶ声に気付かなかった。
「澤田!」
肩に手が置かれ、美弥はゆるりと首をまわした。目線をあげた美弥は、目の前に立つ榊を認識し、目を見開いた。
「ッ・・・! 監督っ!」
「澤田。俺のボトルが」
榊が指す先に、ボトルが転がっているのを見て、澤田は再び目を見開いた。
「申し訳ありません!」
美弥は慌てて駆け寄り、ボトルを拾った。
「きれいにして後ほど持参いたします」
「いや、よい。きれいにしたらそのまま澤田が預っていてくれ」
「はいっ!」
「澤田。試合はおもしろかったか?」
突然の質問に、美弥は目を丸くした。
「あ、はい。正レギュラーをかけた試合は、やはりすごいです。マネージャー、やりがいがあります!」
「そうか。ご苦労! 行ってよし!」
三つ指で美弥を指し、榊はコートを去っていった。(つづく)
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