序奏(PRIMO)








 第3音楽室の前を通った美弥は、聞こえてくる音色に心を惹きつけられ足をとめた。

 誰が弾いているの・・・?

 扉の前で、その一曲を聴いた。扉を開ければそこに姿があることはわかっているが、邪魔をしたくはない、そして、突然に声をかけたら変に思われるかもしれない、と逸る気持ちを抑え、静かに去った。
 それから、時間ができれば音楽室に向かい、音が聴こえてくれば、その音に身をゆだねた。



 そうして、3年の月日が過ぎた。美弥が聞いてきた曲はざっと10はある。それだけのレパートリーを持つ人を、日々、想像していた。力強さがあるから男性だろうと。でもとても繊細で、寂しがりやな方なのだろうと。表現力豊かなので楽譜を読み込んでいるのだろうと。きっと優しい人なのだろうと。
 その日、美弥はまた扉の前に立って聴いていた。
 どうしてこんなに深い音が出るのだろうと、丁寧に終わった演奏に酔っていたところ、扉が開いた。
 その突然のことに美弥は目を見開き、息をのんだ。

 「おっ、鳳、くんっ・・・!」

 美弥の顔はみるみる赤くなってゆく。
 これまで感動してきた音色の持ち主が同じテニス部の鳳長太郎だったことに、美弥はひどく驚くと同時に、スーッと何かが通るような、安堵する気持ちもあった。

 「ずーっと聴いていてくれたんでしょう? いつか声をかけてくれるかなって思ってたんだけど?」
 「ど、どうして・・・」
 「最初は、誰かが聴いてくれているんだなって軽い気持ちだったんだ。でも、本当によく聴きに来てくれるから、僕も気になってた。いつだったか、チャイムが鳴って澤田さんが慌てて走っていったときに、廊下に出て後姿を見たんだ。声、かけてくれれば良かったのに。部活では普通に話せているのにね?」

 そう言って笑む鳳の顔を、キレイだと思った。部活中でも見惚れていた。

 「僕はずっと好きだったよ?」

 美弥は驚き、言葉を失った。
 それは、自然と目で追ってしまっていたことに気づかれていたかのようで、また、「キミはどうだったの?」と問われているようで。
 これまで美弥は告白をされたことがあるが、その都度、付き合うことは断ってきた。それはピアノの音色に惹かれていたからという以外に理由はない。しかしその音色とは別に、鳳のことがいつからか好きになっていたことも事実だった。一緒に帰ったり、帰りがけにどこかに寄ったり、そんなことが違和感ない相手だった。
 跡部が二人を見て、冗談で、「オイッ、そこの夫婦! しゃべってんじゃねーッ。鳳は走れっ!」と言ったことがあった。そんなとき、鳳は何事もなかったかのように「はぁーいっ!」とグランドに出ていったが、美弥は動揺していた。そんな美弥に忍足は近寄り、「美弥ちゃん、鳳と話してるときは、違う顔するんやなぁ?」と言って通りすぎて行った時には、意識しないようにしていた気持ちをあぶり出された気がした。
 美弥は、喉元にある感情を言葉にして発することができない日々を過ごした。
 好きになっていた、なんて陳腐な告白にしかならない気がしていた。

 「お、お、鳳くんだったんなら、最後の1ピースがはまって、パズルができた、感じ?」

 一瞬間をとったが、鳳は美弥の腕をとり、抱き寄せた。

 「嬉しい!」

 鳳の大きな体は、ヒナを守る親鳥のように、美弥を包んでいた。
 美弥の前髪を梳き、おでこにキスをした。
 あたふたとする美弥を見て、鳳は笑う。

 「澤田さん、そんなに驚かなくても」
 「世の中って、狭いね」
 「うーん、澤田さん、それちょっと違うかも・・・」

 キョトンとした顔をする美弥を見て、鳳はやはり笑う。

 「そうだ!」

 鳳は美弥を隣のピアノに座らせ、一呼吸置くと、弾きはじめた。
 エルガーの『愛の挨拶』。
 それは美弥の好きな曲だった。目をつむり、音の中に身を置く。

 「澤田さんを想って弾いたよ」

 まっすぐに見つめられ、臆面もなく言われた美弥は照れる。

 美弥は『パッヘルベルのカノン』を弾きはじめた。間もなく鳳がSECONDOで入った。二人で音を出すこと、それによってもたらされる和音の響きが、心地よかった。一曲終えると、何とも言えない充足感が、美弥の心を満たしていた。





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