安土にて
天正7年(1579年)5月、安土城の天守閣が完成し、信長らは長年暮らした岐阜城を離れた。
琵琶湖畔の安土山周辺は、京都に近く、水運にも恵まれていた。天正5年に信長は楽市楽座制をしき、築城にあわせて建設された城下町は、商業が繁栄していた。
「殿、お待ちくだされっ」
追いかける家臣たちを気にもとめず、信長は急ぎ足で城内に入っていった。
「おかえりなさいませ、殿」
「美弥ー、美弥はどこにおるっ!」
女中の声など耳には入らぬかのように、信長は大声を出して美弥を探した。
「美弥ーーーーーっ!」
「どうなさいました、殿」
急いている風の信長とは対照的な落ちついた口調で、美弥が廊下の角を曲がって現れた。
「おぅ、美弥っ! どこに行っておった?」
「お庭を散歩しておりました。お天気が良い日ですから」
「おう、そうか。ワシも散歩をしてきたぞ。それでな、美弥も喜ぶものを持ってきた!」
「まあ、何でございましょう?」
信長は、自慢するものを見せびらかすかのような表情で、美弥の目の前にそれをちらつかせた。
美弥は、それが何かはすぐにはわからなかった。しかしそれが発する薫りにひきつけられ、顔からは笑みが消えた。
「・・・それはまさか」
「おう、蘭奢待よ!」
-----蘭奢待っ! しかも、一部っ・・・! そのようなものをお切り取りに・・・殿っ!
「散歩って、、、殿はこの安土から正倉院まで行っていらしたのですか?!」
「おうよっ!」
信長は大声で笑った。
「そのようなこと・・・恐ろしくはないのですか、殿は・・・」
「正倉院まで行くことがなぜ恐ろしいのじゃ?」
「違います! 蘭奢待をお切りになるなど」
「ん? 異なことを申す。なぜ美弥は恐ろしく思うのじゃ?」
「人々がご神体とあがめているものに刃物を向けるなぞ」
「ご神体とは誰が決めたものじゃ、美弥? それは暗示にかけられているようなものじゃ。そうではないか?」
「人々が殿を天下人として尊敬しております。それを暗示だと申す者がいて、殿に刃物を向けたら、殿はお怒りになるでいらっしゃいましょう」
「もちろんじゃ。しかしな、美弥。ワシに直接勝負をかけ、刃を向けてきた者であれば、ワシは認めようぞ。じゃがな、ワシがこの木片を手にしたことで刃を向けるのであれば、ワシはそやつには勝つ自信があるぞ」
そう言って信長は口元だけでつくった笑みを美弥に向け、肩を抱き寄せた。
きらびやかな糸で織られている着物が、ギュッと音を発した。信長の力強さが感じられるその音が、美弥は好きだった。
そして、自信に満ちた笑顔で見つめられるのも、また、美弥は好きだった。
「美弥。神仏になど頼るものではないぞ。実際にコトを起こすのはヒトじゃ。ヒトが、あるべき理想を願って何をするかにかかっているのじゃ。ワシがココを安土と名づけたのは、安泰な世の中の土台を作る、という意味じゃ」
「殿・・・」
「恐れることはないぞ。美弥とこの国は、ワシが守る」
「では、わたくしは・・・殿をお守りいたします」
信長は、美弥のあごに手を添え、上向かせると、唇を重ねた。
唇を離した信長は、大きく笑った。
「相変わらず、美弥は顔を真っ赤にするのぉ。いつになったら慣れるのじゃ、ん?」
「慣れるだなんて・・・殿との生活に慣れなど、ありませぬ。今日のようにびっくりさせられることばかりです」
「くちづけとて、いつもしておるに」
「以前と同じくちづけなんて・・・・・・ありませぬ・・・」
信長は、抱き寄せる腕に力を入れた。
美弥を上向かせて、また唇を重ねると、その唇を奪うかのように深く、強く、くちづけした。呼吸をする間が見つけられずに、もがくような顔をしている美弥をいとおしく感じながら。
<NOTE>
*蘭奢待(らんじゃたい):
奈良時代に輸入され、天皇に献上された香木。長さ150cm、重さ1.6キロ、伽羅(きゃら)の朽木(くちき)。
正倉院御宝として保管されている。その名前に、「東大寺」という3文字が隠されている。
足利義政、織田信長が一部を削り取り、また、明治天皇が「一部」を切り取っている。
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