恋着








 河内長野にある金剛寺から安土城へ、米などが定期的に贈られていたが、1582年正月、いつにも増して豪勢な酒樽や酒の肴が進上され、それらはすぐに城内で披露された。

 「お蘭、そちにもやろう」
 「謹んで頂戴いたしまする」

 居並ぶ諸将たちの羨望のまなざしを向ける中、進上品の一部を蘭丸は手にした。

 小姓は、平時戦時を問わず常に主君にもっとも近い場所にあった。機密事項に接し、外交や決裁等をこなし、また、戦時には本陣にて主君を警護していた。
 蘭丸は頭脳明晰な上に、気が利き、立ち回りがうまかった。手を抜かず、しかし入り過ぎず、それでいてすべてに行き届いていて、信長は常に近くに置くようになっていった。寝所を共にすることも小姓の務めであるが、蘭丸は信長の寵愛を一身に受けるようになった。小姓の分際で、と陰口をたたく者が多くいたが、品行方正な蘭丸がその働きぶりで、織田家家臣団に実力を認めさせたのは間もなくのことだった。



 歌を詠んだり、膳を蹴飛ばしたり、笑い飛ばしたり、終わりがないかのようなにぎやかな宴の中、ふと、信長の姿が見えないことが気になった蘭丸はあたりを見回した。

 「坊丸」
 「兄上。いかがいたしましたか」
 「私ではない。殿はいかがなされた」
 「わたくしたちには宴を楽しむように仰せになり、お一人で出てゆかれました」
 「殿がそのように仰せでも一人くらい小姓がお供せずにどうする」
 「申し訳ござりませぬ」

 頭を下げ、すぐに広間を出ようとした坊丸の袖をひき、蘭丸は引き止めた。

 「良い。わたしが行く。お前は楽しんでいなさい」



 蘭丸はまっすぐに書斎へ向かった。
 わずかに開いたふすまの隙間から、明かりがもれていた。

 「お蘭か?」
 「はっ。失礼いたしまする」

 机に向かい筆をすべらせる信長に、蘭丸は声をかける。

 「殿。供を一人くらいお連れくださいませ」
 「そちが参ったであろう?」

 そう言って信長は笑みを浮かべた。
 信長の言葉がストンと胸におち、蘭丸も笑みをみせた。

 信長は書状を蘭丸に手渡した。使者として書状を携え、礼を伝えに行くのも小姓の仕事だ。

 「わざわざそちに行かせる用向きではないのだが・・・そちを寄越せと言ってきておる」

 行けば必ず書や連歌の相手をさせられることを思い、蘭丸は苦笑いを浮かべた。

 「お蘭。此度の書状は簡単なものだ。後はようとりなせ」
 「御意」

 話は終わったとばかりに立ち上がろうとする信長に、蘭丸は呼びかけた。

 「殿」
 「なんだ?」
 「金剛寺へ参ったのち、能登へ足を運びとうござりまする」
 「・・・利家のところか?」
 「はい」

 信長は何かを考えるふうにあごに手をやった。能登までは、数年前に滅ぼした浅井・朝倉の領地だった道を通る。

 「・・・道中、用心せいよ」
 「はっ」
 「お蘭。いかがした? 物見遊山で申したとも思えぬが」
 「新年のご挨拶に伺います。前田殿が領している土地を見とうござりまして」
 「そちは知行を望んでおったのか?」

 領地や財産を得るためにそばにいるわけではないことを知っている信長は、しかしそう言ってにやける。
 蘭丸はふくれ面で信長を見上げる。

 「・・・殿、お寂しいかもしれませぬが、ご辛抱くださりませ。あッ」

 憎まれ口をたたく蘭丸を、信長は抱き寄せた。

 「愛いヤツじゃ」

 シュルと衣の音をたて、腰帯が解かれる。

 「殿、ここは寝所ではござりませぬゆえ」
 「構わぬ。そちから仕掛けおったのではないか?」
 「書状をいただきましたので、私はこれよりすぐに発ちまする」
 「なに、今すぐにと申すか? うむ。そちが素直になればすぐに済むわい」

 蘭丸の首筋に唇が落とされる。
 少々乱暴だが、優しいぬくもりに、蘭丸の体がじわりと熱を持つ。

 「あっ・・・」

 慌ただしくも熱い時が、安土城の一室に流れていった。










 いつものように金剛寺の客間に通された蘭丸は、にぎやかな声に耳を傾けていた。
 間もなく、住職の真英がやってきた。

 「森殿。お待ち申し上げておりましたよ。正月早々に慌しいところをお見せしております」
 「真英殿。新春の御慶び申し上げまする。穏やかに、しかしにぎやかにお迎えのようでございまする」
 「これはお恥ずかしい。森殿がいらっしゃるということで、皆、浮き足立っておりまするので、ご勘弁ください。さてさて、上様にはつつがなく新春をお迎えのことと存じまする」
 「はい。金剛寺さまからの上様への御進上品、ありがたく頂戴いたしました。こちらに、上様よりの書状をお届けいたしまする」

 口上を述べた蘭丸は書状を差し出した。

 「恐れ入りまする。ささ、森殿、もう、お顔をお上げくだされ」

 顔を上げた蘭丸の表情は穏やかで、美しく、住職は戸惑った。

 「真英殿。此度は私めにもくださりまして、ありがたく存じまする。しかし過分に頂戴しておりまするゆえ、今後はお気遣いなくと、上様も申されました」
 「いやいや、またお贈りいたしまするゆえ、ぜひとも当山にお越しくだされ、森殿。若い僧たちが森殿の講談を楽しみにしておりまするゆえ」

 懇ろにもてなされ、蘭丸は寝食不自由ない二三日を過ごした。





 いっぱいの土産を手に金剛寺を後にした蘭丸は、供の者たちを安土城へと帰した。屈強な体を持つ蘭丸にとって、供を連れている方がわずらわしく、一人の方が行動はしやすかったのだ。身軽になった蘭丸は、加賀へ向けて馬を走らせた。

 能登を治める前田利家は小姓として信長に仕えた。元服後、馬廻に昇格となるが、同朋衆(頭を丸めた、雑用を行う家臣)の拾阿弥を斬殺し、信長から勘当された。そうして一時そばを離れたが、1561年、斎藤龍興との森辺の戦いにおける武功で許されてからは、武将へとのしあがってゆき、1581年10月、能登一国が拝領されるまでになった。
 利家に拝領が言い渡された場には、蘭丸も信長のそば近くに侍していたが、利家の晴れやかな顔が蘭丸には印象的だった。力ある者は立身出世を狙う。武功を上げ、領地を与えられることを望み、主君に仕える。それは自身の行く末が示されているかのようで、小姓あがりの利家が一国を拝領されたことは大きなできごととして蘭丸の心に響き、その地を一度見ておきたいと機会をうかがっていたのだ。










 城門に立った蘭丸は、傘をクッと上げ、城を見上げた。
 門番に書状を渡し、しばらく待った蘭丸は、やがて丁重に迎え入れられた。

 雪景色を眺めることができる大広間に通された蘭丸は、能登の冷たい空気に心地よさを感じていた。
 廊下を慌しく歩く音が聞こえ、蘭丸は頭を下げた。

 「森殿!」
 「前田殿、お久しゅうござりまする」
 「良い良いっ! 頭をあげよ! そなた、来るなら事前に書状でも寄越せば良いものを」
 「それですと身軽に行動ができませぬゆえ。ただ、突然の訪問はご無礼つかまつりました」
 「そのようなことは構わぬわっ! しかし上様はご存じでいらっしゃるのだろうなっ?」
 「はい。用心して参れと送ってくださいました」
 「・・・そなた、のろけに参ったのか?」

 蘭丸の酢を飲んだような顔を見た利家は笑った。

 「上様はお元気か?」
 「はい。今頃、次なる策でも練っておられるのではないでしょうか?」

 利家は大きく笑った。

 「それがしが上様のおそばにあった時とは随分とお変わりになったのではあるまいか?」

 蘭丸は利家の言う意味をわかりかねた。

 「そなた、さらに美しゅうなったな」

 素直に顔を赤らめる蘭丸を見て、利家は信長が執心するのがわかるような気がした。

 「徹底した戦を仕掛けるかと思いきや、愛らしいそなたをとても大切になさっているのがようわかる。手厳しい、気の荒いだけのお方かと思うていたが、そういうことができるお方であるから、つまり、そなたがおそばにあれば大丈夫であろう。・・・人間、誰もが丸くなるものなのだな?」

 そう言うと利家は茶をすすり、笑った。
 主人についての随分な言い様に蘭丸は少々気を悪くしつつ、しかしそれを小姓である自分にあっけらかんと話す様には親近感を抱いた。

 「そなたのその一途な様がお寂しい殿を癒すのであろうな」

 蘭丸は、初めての夜を思い起こした。
 甘く、しかし、抵抗を許さないくちづけに翻弄され、また、何かを求めるような、激しい愛撫に戸惑った。昼間の荒い気性からは想像できない弱さを見た気がした。

 寂しさ、弱さがあるから人は強くなるものなのだろうか。

 それでも蘭丸にとって信長は常に上手だった。一歩、いや二歩も三歩も先を行く存在だ。年齢による経験の差はそうそううまるものではなく、たどり着けない場所にいる。かなわない相手がいることを思い知ったこれまでだった。
 それを知ったことは決して悪くはないと蘭丸は思っている。
 超えられない線を感じつつ、主君の弱いところが自身にさらされる。
 もはや離れられないと、思う。

 蘭丸は瞑目した。

 「ところで、そなた、何ゆえ忍んで参った?」
 「前田殿の領する土地を見てみとうござりました」
 「そうか・・・。わしも小姓上がりじゃからの」

 蘭丸は首をかしげる。

 『お蘭。小姓でなくなっても、そちだけは特別じゃ』

 上を目指せという意味を含む信長の言葉だが、出世して信長のそばを離れていく諸将の姿を自分に置き換えれば、それは幸せではない気がした。

 この場所を誰かに渡せはしない・・・。


 欲しいのは国ではなく。



 ただ。



 殿の隣。

 「前田殿。私は殿のおそばで、この道を究めとうござりまする」
 「そうか」

 揺るがぬものを秘めた視線を、利家は受け止めた。

 「そなた、やはりのろけに参ったのであろう?」
 「そうお取りいただいても構いませぬ」
 「ぬかしおる」





 利家に案内され、蘭丸は能登を見渡せる高台に立った。
 舞い散る雪が肌に落ち、すぐにとける。
 とけずに、雪のようにしんしんと蘭丸の心に積もってきた気持ち。
 愛し、愛されたいという情に縛り付けられていることに気づく。

 蘭丸は、声にならない想いを空へのせた。





 能登から遠く離れた安土城の庭先で水仙の花が揺れた。










 五ヵ月の後、本能寺にて、共に相果てる。





月刊ナカジン表紙へ戻る

織田信長 FAN BOOKのトップへ