覚醒








 父上は何を頼りに最期まで城を守ろうとしたのだろう。





* * *





 「森蘭丸成利、お召しにより参りました」
 「入れ」

 織田信長に小姓として召抱えられた初めての夜、白い着物に身をつつんだ蘭丸は緊張した面持ちでふすまに手をかけた。
 寝所に入り、部屋の隅に正座した。

 「近う」

 広げていた書を閉じた信長を真正面に見据えると、自然、蘭丸の視線には強みが増した。

 「良い目をしておる。蘭丸。儂を恨んでおるか?」

 あいまいに心中に押さえておいた気持ちを引っ張りだされ、蘭丸は思わず息をのんだ。





 浅井・朝倉から攻められた宇佐山城において、父・可成が討ち死にしたのは、蘭丸が6歳の時だった。
 葬式を前に、こぶしをつよくにぎって涙を落とす蘭丸に、長兄の長可は言った。
 『蘭丸。父上は殿様のために、立派な死を遂げたのだよ。殿様のために戦い、殿様が有利になるように父上は頑張ったのだ。父上は負けようと思って戦ったのではないのだよ』
 それから、空を見上げ、忙しく働きながらも時間があれば遊んでもらえたことを懐かしんだ。
 両手を見て、高く抱き上げてくれた父親の大きな手を思い出した。
 しかし日に日に、父親のぬくもりが薄れていくことを恐怖に感じていた。家督をついだ長兄がなぜ平気で仕えることができるのか、蘭丸にはわからなかった。そうして、失いたくないものを失ってゆく寂しさを、蘭丸は抱えていった。

 父上は殿様に見放された・・・。

 蘭丸は、まだ幼い力丸や坊丸ら弟を守るために武術の稽古はしたが、織田家に仕官する気は持っていなかった。
 しかし15歳になると、長可は織田家当主の小姓となる話をもってきた。蘭丸は、家督をついでいる兄を思い、そして仕えることなく生きていくことは難しいという現実を知り、気持ちを抑えて仕えることを決めた。
 『これからは殿様にお仕えするのだよ。父上がまだ果たせ尽くせなかった想いをくんで、立派に仕えるのだよ』
 『立派にお仕えいたしまする、兄上のために』

 そう思ったはずだった。





 「されどそちに儂の首がとれるか?」

 武士の家に生まれ育っている蘭丸は、それゆえ勇気のなさを見透かされていることがわかり、屈辱に顔を赤らめた。

 「儂は平安な天下をつくりたい。そのためには戦が必要であり、そうすれば犠牲が生じる。それはいたしかたないものなのじゃ。天下平定のための犠牲の見返りは甘んじて受けようと思うぞ」

 信長は酒を口にした。

 「儂の天下の構想に、そちの父上は最も力を貸してくれた。最期は儂が動きやすいように、宇佐山でよう踏ん張ってくれた。そちの父上は剛毅で、たくましいヤツだったぞ。蘭丸、そちがなにやら卑屈になることはない。可成の息子であるそちなら、儂は安心して我が身を預けようぞ」
 「父上のことを!」
 「ん?」
 「父上のことを、もっと教えてくださりませ」

 蘭丸は信長の腕をしっかりとつかんでいた。

 「やれやれ。・・・今宵は昔話といくか」



 やがて眠りについた蘭丸の目尻に涙の跡をみた信長は、蘭丸の身体を寄せ、眠りについた。





 明け方、信長は鼻の辺りにむずがゆさを感じた。

 「ん? 蘭丸・・・? 何をしておる?」

 蘭丸は、信長の胸のあたりに顔を寄せ、深呼吸を繰り返していた。

 「においが」
 「におい?」
 「いいにおいがいたしまする」
 「愛いヤツじゃ」

 信長は蘭丸を抱きしめると、額、首筋、肩へと、唇を落としていった。

 「えっ、あのッ」
 「よい。そなたはそのままでおれ」





 いつしか、もっと、と乞うように信長の頭をかき抱く蘭丸がいた。



 戸惑いや衝撃などあらゆる感情に翻弄された蘭丸は、やがて深い眠りにおちていった。





 すっかり陽は高くなり、安土城内はいつものように政務が始まっていた。
 鶏が鳴くか信長が起きるか、という言葉が交わされるほど早起きの信長が、この日は寝所から出てこないため、心配する側近もいた。

 同朋衆の紋阿弥は、信長に見せようと持参した茶碗を両手に、時間を持て余していた。
 同朋衆は、剃髪し、法衣に身を包み、工芸品の鑑定や管理、芸能、茶事、雑役などをつとめていた。小姓と同様、近習だが、小姓が戦時に本陣を守る旗本、軍事面の近習ならば、同朋衆は事務方の近習といえる。
 紋阿弥は、書庫の方へと歩いてゆく織田家重臣、菅谷長頼の姿を見つけ、後を追った。

 「菅屋殿」
 「これは紋阿弥殿、なにか?」
 「殿様は未だお休みでいらっしゃるご様子。まさか、小姓に寝首をかかれたのではありますまいな」
 「ご心配には及びません。殿もお懐かしいお気持ちなのではないでしょうか。森殿は宇佐山で討ち死となったお父上とよう似ておるゆえ」
 「小姓にご執心とは」
 「殿が情だけで動くお方ではないことはご存知でありましょう? 森殿の活躍、期待してよろしいのではないですかな? では、失礼」

 言いくるめられた形となった紋阿弥は顔をゆがめた。



 ゆっくりと目覚めた蘭丸は、書を広げる人物の後姿を眺め、記憶をたどった。

 父上の話を伺って、殿様と共に・・・・・・眠りこんでしまった・・・!

 蘭丸は飛び起きた。

 「も、申し訳ございませんっ」
 「ん? お蘭、目覚めおったか。よいよい」

 顔を赤らめ、慌しく着物を整える蘭丸に向かい、信長は言った。

 「お蘭。寂しさを怒りに変えてはならぬぞ。儂の下で、強くなれ。」

 目の前にいる主君に対して、魂が惹かれるような熱い想いを抱いた。
 目の前にいる信長が父の頼りだったのだと、蘭丸にはわかった。





 天正7年、一つの歴史が始まった。
 




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