相克






 元亀元年(1570)の姉川の合戦で敗れた浅井・朝倉両軍の残党が一向宗を扇動し、また、一向宗の元締である石山本願寺に与した。
 朝廷や公家・大名などが好を通じようとするほどの勢力を持つ本願寺だが、ただ一人、信長だけは意のままにできないでいた。
 本願寺第十一代法主、顕如は、信長のおどしともとれる申し出に怒りをあらわにした。
 「信長めっ、何様のつもりだ!」
 下間頼廉は、まだ若い顕如の顔がみるみる赤くなっていくさまを見ていた。顕如が11歳で法主になったときから付き従い、法主として人々を救う様子を見守ってきていた。
 「織田信長は何と?」
 「石山から撤退せよとほざいておる。おのれ・・・」
 前年、信長から金があるところからは集めると言わんばかりに矢銭(軍用金)を課されたばかりだった。払う理由がないと一度は拒絶したが、尼崎を焼きはらわれ、しかたなく、しかし信長が所望した半分の矢銭を差し出したのだ。
 「かくなる上は日本中の門徒を決起させるのじゃっ!」
 「はっ」
 頼廉は各所に発する文書を記すために、筆などを用意した。顕如は、頼廉に言い聞かせるかのように力強く言った。
 「開山以来の仏敵が現れ、今や滅亡の危機にある。念仏を唱えるならば、命の終わりとともに永遠のやすらぎの世界にたどりつき、仏による救いが得られるであろう。その仏が滅されつつある。戦う者は救われる。救いである仏の敵と戦った者にこそ、阿弥陀さまのご加護が得られるのだ!」
 信長に対抗しなければ門徒ではないと、顕如は激を飛ばした。
 顕如は、野田・福島砦に門徒衆を固め、鉄砲を使う根来衆や雑賀衆を戦力として合わせた。この砦を破られたら石山に攻め込まれるという危機感が、顕如にはあった。そのため、信長の目をそらすことを目的に、浅井、毛利、武田らと連絡をとり、反信長網を布いていった。信長から煮え湯を飲まされ続け、思い通りにならないもどかしさは、重なったのだ。

 一方信長は、野田・福島砦に兵を向け、本願寺の南方、天王寺に陣をしいた。
 「死して後に救いなどあるものかっ。短い時間にいかに世を生きるかじゃ」
 武家社会とは違う秩序で、国を越え、一つの見えないものを信じて共に戦うということに、信長はそら恐ろしさを感じていた。天下布武の妨げとなるものは排除せねばならないし、妨げとなるものが持つあらゆる「力」を自らのものにする必要があった。
 「この世を生きる者たちにこそ、金は出すものじゃ」
 信長は商業を発達させることに目を向け、人や物の行き来を自由にさせて、経済の流通を活発化させた。また、合戦にあたっては農民が農作業の心配をしなくてもすむように、農民と足軽とを分けた。褒賞は惜しみなく与えた。東西の物が集まる琵琶湖や伊勢湾を手中にした。
 物流面で有利な立地を本願寺が持っているままにしておくことは、ならない。
 「石山は淀川を通って京に通じておる。各地の産物が運ばれる場所じゃ。川と海に囲まれた、天然の要害。なんとしても手に入れねばなるまい?」
 側近の光秀に語りかけるかのようにひとりごちた。
 初陣において鉄砲を使い勝利を収めた信長も、戦力として鉄砲を使っていたため、敵味方の鉄砲の音がけたたましく空に響いていた。信長は敵に休む間を与えないほど、断続的に攻撃を加えた。味方は三段四段の構えをとっているために入れ替えに休む間を作ることができるが、絶え間ない信長の攻撃に、野田・福島側は和睦を申し入れた。
 「光秀。和睦はせぬぞ」
 「では」
 「うむ、兵糧攻めじゃ。道はふさいでおろう?」
 「はっ、補給路は見つけ次第、つぶしてござりまする」
 「よいっ」
 兵糧攻めにより砦が落ちるまではそれほど時間はかからないと見た信長は、砦は光秀に任せ、本陣を海老江に移した。
 すると、台風がやってきて、みるみる淀川の水量が増した。
 「殿! 川の水が本陣に迫っておりまする!!」
 「何っ?」
 「三好衆が川の堤防を決壊させ、本陣に水を向けたものと思われます」
 応仁の乱後、荒廃した都を復興し、堺の町を貿易港に整備する等、三好氏は機内において力を伸ばしていった。その結果、摂津、河内、大和、丹波、山城、和泉といった機内、阿波、讃岐、淡路の四国に加え、播磨、伊予、土佐の一部を支配する大名にまでなった。上洛し、独自政権を模索したが、三好家内の勢力争いが絶えず、信長が天下に号令した頃には、信長の配下として存続するしかない状況だった。そうはいっても、黙って配下になるのはよしとせず、常に小さな抵抗を示していたのだった。
 「本陣を高台へ移動させねばなりますまい」
 「くそっ、藤吉郎、指揮をとれっ」
 「はっ」
 低地となっている海老江は浸水し始め、信長軍は逃げるように移動した。
 「おのれ・・・」
 本陣を移し床机に落ち着いた信長は、扇を床へ投げつけた。
 「申し上げますっ。浅井・朝倉軍が京を目指して琵琶湖を南下している模様!」
 「何?!」
 砦に対陣している最中に浅井・朝倉勢が動くということを信長が予想していなかったわけではなかった。が、その動きは思いのほか早かった。
 このまま浅井・朝倉軍に京に入られては、京の治安が乱れる。
 旗指物を背にした別の使番が、本陣に入ってきた。
 「申し上げますっ」
 「いかがした?」
 「石山が決起してござります!」
 信長の目がクワッと見開いた。
 ほうほうのていで海老江から逃れてきた信長の下にもたらされた凶事だった。
 砦が落ちることは目に見えているが、ここで石山勢に攻められては、腹背に敵を受けることになり、下手をすれば京に戻ることができなくなる。京を失うことの政治的・経済的打撃は大きい。
 信長は立ち上がった。
 「全軍、退却っ!!! 休まず京へ戻れーいっ!」
 決断は早かった。

 浅井・朝倉軍が、琵琶湖の西側を通り、坂本に押し寄せた。
 坂本は、北陸から京へと入る重要な場所であり、坂本・宇佐山城の守りは信長股肱の側近、森可成が任されていた。
 「ここを守らねば浅井勢は一気に京へ入ろう。京を乱してはならぬっ。大阪の御大将が京へお戻りになるまで、ここは持たせるのじゃ!」
 可成は軍勢を率いて宇佐山を駆け下り、坂本口で敵と接触した。
 「坂本に入れてはならぬっ!」
 小競り合いののち、森勢は勝利をおさめた。
 しかし再び、浅井・朝倉勢が坂本口に押し寄せた。二手に別れ、坂本口を守る森勢を囲むように攻め寄った。
 「青地! 坂本の町を灰としてはならぬっ! 領民を守れ。坂本口をよう防げっ!」
 「森殿はここを退き、大阪へお急ぎくだされっ」
 「なにっ、わしはここで最期まで戦うぞ。勝つと思うて戦うのじゃ。さすれば御大将は勝つ!」
 森勢は勇を奮って戦い、激戦となった。しかし、浅井・朝倉軍の挟撃は激しく、森勢はついに崩れた。
 間一髪、京へ戻った信長の下へ伝令がきた。
 「申し上げますっ。宇佐山が落ちましてござりまするっ!」
 立ち上がり、声が出ないほど驚愕する信長だった。
 可成の長男で、信長の側近となっている長可を気遣い、菅屋長頼が聞いた。
 「森可成らはいかがした」
 「はっ。・・・森可成殿、織田九郎信治殿、青地茂綱殿、尾藤源内殿、尾藤又八殿他、皆、お討ち死にでござりまする」
 「・・・おのれ。長可っ。可成の仇、必ずや討ちとろうぞっ」
 信長は、手にしていた杯をにぎりつぶした。





 京へ入ることができなかった浅井らは天台宗総本山である比叡山に逃げ込み、比叡山はそれに呼応した。比叡山もまた、信長を疎んじていたのだ。
 信長は本陣を宇佐山城に移し、比叡山に向けて戦を仕掛けたが、浅井・朝倉軍はのってはこなかった。
 「夕庵っ! 夕庵はおるかっ!」
 重臣の武井夕庵を呼んだ。
 「比叡山へ文を!」
 信長は比叡山に、中立を呼びかける文を出した。
 信長に忠勤を励むならば、信長の領国内にある山門領を元のように返す。しかし、出家の身で一方の陣へのみ肩入れすることができないということであれば中立を保ってほしい。もしこの二点を尊重しない場合には、根本中堂・山王二十一社をはじめ、堂塔ことごく焼き払う、といった内容だった。
 比叡山はその内容を無視した。
 また、朝倉に和睦を申し入れるが、これも拒否された。
 そればかりか、これを好機と、六角氏が反信長で挙兵した。六角氏は鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配し、一大勢力を築いたものの、浅井長政と戦って破れたことを契機に内紛が勃発するようになり、衰退していった。上洛する信長軍と戦って敗れてから、ゲリラ的に抵抗を示していたのだった。
 そして、本願寺の激に呼応した長島一向宗による一揆が勃発した。信長が手いっぱいなのを見越した一向宗は、信長の弟・信興が守る小木江城を包囲したかと思いきやあっという間に城内に乱入した。
 「一揆勢に討たれてなるものかっ!」
 信興は天守にあがった。
 「坂田!」
 信興は信頼する側近、坂田甚兵衛と目を合わせ、力強くうなずきあった。
 信興は切腹し、坂田が歯をくいしばって介錯をした。その首を一揆勢になど渡さぬ、と衣に包み、天守を後にした。
 信長は孤立無援となった。
 『志賀の陣』。
 信長は外交担当の松井友閑を呼んだ。信長の舞の師匠であり、文化人だった友閑は、朝廷における人脈が深かった。
 「友閑。朝廷を動かすのじゃ。帝に間に入ってもらい、和議を結ぶのじゃ。・・・良いな?」
 「承知つかまつりました」
 朝廷が戦いを見守り続けることに利がないことを説いた友閑の工作は成功し、本願寺、また、浅井・朝倉との和議が成立した。


* * *



 それから信長は、和議はなかったかのような、それぞれへの撃破を開始するのである。
 既に、元亀2年(1571)、比叡山が信長の文を無視したため警告通りに比叡山を焼き討ちとしている。
 天正元年(1573)、浅井・朝倉を滅亡させる。同年、槙島城において将軍義昭を攻撃し、室町幕府を滅亡させる。
 天正3年(1575)、信興が殺された報復に長島を攻める。同年、長篠の戦いで武田家を破っている。
 天正6年(1578)、本願寺に兵糧を運びいれようとしていた毛利水軍を織田水軍が破る。これにより、本願寺は孤立する。
 天正8年(1580)、本願寺と和睦。
 本願寺が石山を明け渡し、紀州に退却するという実質的に信長が勝利をおさめるまでの十年間は、信長の天下統一を遅らせた。





 超越した人間同士の妥協できぬやりとりは長い戦いを生み、また、何か信念を持つ者同士のぶつかりは、激しい争いを生む。





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