執着
天正9年(1581年)、織田信長は嫡男・信忠に名物の脇差しを与えたが、その際の使者は森蘭丸だった。
「蘭丸」
書物を運んでいた蘭丸は声のした方を見たが、ばつの悪さから、無意識に視線を外していた。
「なんだ、随分だな」
無意識を憎むと同時に、相手に気づかれていることは舌打ちしたい気持ちで、しかし蘭丸は最上の笑みを浮かべた。
「これは柴田殿。いかがなさいましたか」
「白々しいぞ、蘭丸」
「御用がなければ、急ぎますゆえ、失礼いたしますよ」
「おいおいっ。・・・お主、殿が新しい小姓を召抱えて機嫌が悪いな?」
顔を合わせればつっかかってくる柴田勝家とは相性が合わないと割り切ってはいたが、突かれたくないところを突かれると、蘭丸の機嫌も悪くなる。
「関係ござりませぬ。現在の小姓衆では殿をお守りするには不十分な人数ですので、殿のご選択は当然なのではないでしょうか」
「かわい気のない奴だな」
蘭丸は顔を赤らめ、先を急ごうとした。
「その殿がお呼びだぞ」
「それを早くおっしゃってくださいっ! 失礼いたします」
蘭丸は足早に信長の部屋へと向かった。
「失礼いたしまする」
蘭丸はふすまを開けた。
「おー、お蘭」
名前を呼ばれ、蘭丸の口角は、自然、あがった。安心感を覚えると同時に、畏怖を覚える信長の声が好きだった。
「いかがなさいましたか」
「これを信忠に届けてくれ。儂からの贈り物じゃ」
蘭丸の胸がチクリと痛んだ。
「・・・岐阜にいらっしゃる信忠殿に、ですね」
「何じゃ? 何か棘のある物言いじゃな」
「何かお心あたりでもあおりでしょうか?」
「ん〜、お蘭。儂が愛しておるのは其方だけじゃ」
「どの小姓にもおっしゃっているのではありませんか?」
「そのようなことを申すでない」
信長は蘭丸を抱き寄せ、首筋に口付けた。
「・・・儂の肌が冷めぬうちに戻ってこいよ」
口付けられ、気分的にもう身を任せてしまっている自身に口惜しさを感じ、蘭丸は唇をかんだ。
旅の支度をする蘭丸の部屋に、側近の堀秀政が訪れた。
「其方、これから岐阜へ参るらしいな」
「追い出されるのです、2、3日」
「殿は其方がいるときには他の小姓衆は呼ばぬからな」
「それがあからさまで、気を遣われているようで、苛立ちを感じまする。わたくしなどにお気を遣ってどういたします?」
「そうかといって、其方がいるときに他の小姓は呼べまい?」
動きを止め、顔を赤らめる蘭丸を見て、秀政は心の内ではかわいいと思った。
「現在の小姓衆ではまず押さえが少ない」
「承知しております」
「召抱えたとなれば、夜の勤めもさせねばなるまい」
「それも承知しております。でも、やはり胸が締め付けられるのでござります」
蘭丸は秀政には心の内を吐き出すことができた。
「其方は動揺を見せたら負けになるぞ」
「堀殿」
「其方は何食わぬ顔をしているのが一番じゃ。其方はすぐに態度に出るゆえ、歩き方も話し方も変わる。殿がただ一人とお決めになっているのは周知のことなのだから、付け入られる隙を作ってはならぬぞ」
蘭丸は深呼吸をした。
「堀殿」
「ん?」
「岐阜は私の生まれた地。少々、里帰りをして参ります」
秀政は笑んだ。
「それがよい。道中気をつけろよ。失礼する」
「ありがとうございます」
蘭丸は、信長の眼前に広がる未来を、共に見ていることに改めて気づかされた。
前へ進もうとする力、天下統一への執着、揺ぎないものの気持ちよさを教えられた。強い意志、一貫性に惹かれてやまない。
殿のことになると余裕は難しい、と蘭丸は苦笑した。
胸が開かれるような、清清しい気持ちに満たされた蘭丸は、しかし、温もりを離さぬように、袷を押さえた。
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