#75話 「さらば、手塚国光」








 一ヶ月前、手塚が私に決意を明かしてくれた。ひじの治療のためにドイツへ行くと。
 手塚と離れ離れになるなんて、想像したこともなかった。これから、恋人のいる受験ライフを送る予定だったのに。
 ・・・。
 手塚はドイツ語をマスターしてくる。
 少し悔しかった。
 私もしゃべれるようになりたい!
 一瞬揺らいだ気持ちを立て直し、語学スクールの門をたたいた。


 それから通学電車の中でも、ドイツ語の勉強をした。
 ターミナル駅に若干遅れて到着した電車からは、大勢の人が吐き出されるが、私もその中の一人で、狭い出入口から勢いよく押し出され、その勢いのまま、テキストをバッグにしまいながら歩いていた時のこと。
 「ッ・・・!」
 ふと腕をつかまれ、顔を上げると、目の前には案内板があった。危うくぶつかるところだったことを知る。
 顔を向けると、手塚がいた。
 「危ないな」
 「手塚っ! どうしてッ」
 「どうしてお前はそう古典的なことをするんだ。前を見ないで歩いて電柱や障害物にぶつかってみたり、ラーメンにコショウをふってくしゃみをしたり」
 「あ、ありがと・・・」
 私が手にする本に手塚の視線が向き、隠しても仕方がないのだが、私は慌てた。
 「ドイツ語・・・勉強しているのか?」
 「ま、まぁね・・・。手塚だけドイツ語マスターしてくるのって悔しいじゃない?」
 「そっちか?」
 「え?」
 「向きがおかしいとは思わないか?」
 意味がわからない。
 「ま、そういうちょっとズレたところがお前の魅力ではあるが」
 「なになに〜? 照れること言ってくれるじゃない?」





 そうして、笑って手塚を見送った。成田に残されるというのはなんと寂しいことだろう。
 手の届かないところに行ってしまうのではないかという恐怖。信じていないわけではないけれど、違う何かを見てしまっても、そこにわたしは居るだろうか?という不安。
 両腕を抱え、手塚が消えていった先をじっと見つめた。



 「よしっ、ドイツ語マスターッ!」





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