落語を楽しむ日記

〜2007年〜


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2007.10.26
■立川談慶さん---天丼を食べて落語を聞く会@浅草・大黒屋■

前座『たらちね』
『唖の釣り』
仲入
『井戸の茶碗』


<たらちね>
 立川三四楼さんによる。先日も思ったけれど、寝起きみたいな感じで、もーちょっとピシッとならんのかいな?と思ってしまった(笑)。
 とてもさぶい感じ(笑)。
 ぞんざいな男と、ばか丁寧な言葉遣いの娘(この名前がまた寿下無寿下無、、、みたいなとても長い名前)との結婚話。
 釣り合いがとれて、アレ、アホなカップル、、、みたいな話だった気が・・・オチを忘れてしまった・・・。

<唖の釣り>
 殺生禁断の池・不忍池に釣りに行く話。
 お役人に見つかってしまうのだけれど、ひょんな誤解から、「耳は聞こえるけれど話すことができない人」とされてしまい、身振り手振りで、父親が病気で余命いくばくもない。鯉が食べたいと病床で言うものだから食べさせてあげて、喜んだ顔を見てから自首しようと思っていた、と説明する。
 お役人は親孝行に免じて許す。
 最後に、話すことができない人が「ありがとうございます」と言ってしまう。

 お調子者が出てくるものは談慶さんは得意そう。楽しく聞くことができます。

<井戸の茶碗>
 正直者のくず屋のせいべえが、わらしべ長者になっていく話。
 千代田様からくずとして300文で預かった仏像が400文でお武家様(高木様)に売れた。
 その儲けを、せいべえと千代田様と高木様とで、何とかわける。何とかというのは、取り合いをするのではなく、その逆。激しい譲り合い、、、。
 仏像を買った高木様が、汚れがひどいからと磨いてみると、仏像の体内から小判50両を見つけた。
 その儲けをまた何とか分け、しかしその儲けをもらう代わりにと千代田様は高木様に茶碗を差し出した。
 高木様が譲り受けたその茶碗が高木様が仕える家・細川のお殿様の目にとまり、300両で交換。
 その儲けはもらえないと、やはり断る千代田様。
 せいべえが「ではまた何か、でもまた茶碗のように値がつくとやっかいなので、値のつかないものを高木様に差し上げたらどうです」と提案。
 「そうだな」と娘を高木様にもらってほしいと。
 高木様は「これまで見合いは断ってきたが、俺もそろそろ年貢の納め時」と娶ることを決める。
 「若い、きれいなお嬢さんですから、高木様が磨いてくださいね」
 「いや、磨くとまた小判が出るといけない」

 気持ちよい最後だったなぁ〜。たぶん、オチへの持っていかれ方がナカジにはちょうど良かったのでしょう、と。
 立川流は、落語に出てくる人はどうしようもない人たちばかりだよ。人間なんてこんなもんだよ。ダメならやめちゃえ。頑張るなよ。落語なんて、しょーもないものなんだよ。落語から何かを得ようなんて思うなよ。という捉え方をしているらしい。
 いい人しか出てこないからっ(笑)。
 「私は仏像は買ったが中にある小判までは買っていない!」とか「先祖が何かのためにと仏像に入れておいてくれたのだろう。しかしそれを手放した罰があたったのだ。私も元々は武士の身。刀にかけても受け取らん」とか。堂々と言ってみたいすごい言葉のオンパレード。
 これをまたまじめに、おもしろおかしく、談慶さんが演じるので、素直に聞きいってしまった。
 しかし落語に登場する人たちのアホさ加減は、自分に似ているものがあって、、、ちょっと微妙な感じ。。。なんか、自分の姿を見せつけられているような気になるのよね・・・。

 ナカジにとっての落語って、何でしょうね。
 物語を知りたい、というところか。やはりストーリーの組み立てには唸るものがあるし、楽しいし、「こういう話を書きたいなぁ〜」というのが一番かな。
 だったら落語集を読めば?と言われるかもしれないけれど、そのおもしろい物語が人の口に乗るから面白くなるのであって、だから、喜劇集とは違うと思うのよね。戯曲はやはり演じられて活きるのであって、落語も語られてより活きるのだろうと。
 だったらCDだっていいんじゃん?と言われるかもしれないけれど、演劇だって、ステージを見ることが大事で、「生」が大事なのですよ。

2007.01.26
■立川談慶さん---天丼を食べて落語を聞く会@浅草・大黒屋■

 前座『??』
 『禁酒番屋』
 仲入
 『百年目』


<前座>
 立川三四楼さんによる。
 エロ、グロ、駄洒落、ナンセンスのオンパレード。ここまで引いたのは初めて(笑)。

<禁酒番屋>
 ある藩で、酒のうえでの殺傷事件が生じ、禁酒令が敷かれた。
 そんな中、お武家の近藤さんから「ウチに酒を届けろ」という依頼を断ることができない。仕方なく、徳利に酒をいれ、進物用カステラとして届けようと、番屋を通る。
 「近藤家へお届けする進物用のカステラですから、開封しないで素通りさせて」
 進物用なら仕方ない、と番屋がOKしたところ、安心したのか、そのカステラを持とうとした商人が「どっこいしょ」と言ってしまう。
 「カステラなのに、どっこいしょって、どういうこった?」
 「手前どもで開発しました、水カステラでして・・・」
 ということで、中身を検められることに。
 結局、番屋で1升を飲まれてしまう。
 次は、徳利の中は油だと言って、番屋を通ろうとする。
 しかしまた検められ、番屋で1升を飲まれてしまう。
 結局、2升を無駄にしてしまった商家。みなで話し合ったところ、2升をただで飲まれてしまったのは癪だし、しかしこれまで嘘を言ってきたから自分たちもいけない。今度は正直に行こう、と徳利に小便をいれて「これは小便です」と持っていくことにする。
 番屋では「最初が水カステラで、2回目は油で、3回目は小便かっ!」とやはり同様に中身を検める。そしてビックリ。本当に小便!
 「ですから手前は最初から小便だと申しております」
 「そりゃわかってる! この正直モノめ!」


 すぐに思い浮かんだのが、『三匹のこぶた』。わらの家→木の家→レンガの家という3順番を踏むタイプのもので、狼をおとしめる同様、番屋役人をおとしめる話。
 調子に乗ったらいけないよ、という教訓でしょうか。
 談慶さんの酔っ払いぶり、うまい。また、複数人物の使い分けが、めりはりあって良いです。


<百年目>
 商家の番頭は、手代や小僧を育てるために日々小言を言うが、そのために疎まれる。
 ここに、「太鼓持ちって餅は煮て食うんですか、焼いて食うんですか? 芸者って紗は、夏着るんですか、冬着るんですか?」という堅物な番頭があり、それゆえ下の者から馬鹿にされたりもする。
 それでも小言は減らないし、減っては番頭の仕事にならない。

 この日も手代や小僧たちに小言を言った後で、「では、出かけてきますよ。留守番しっかりね」と出かけてゆく。
 番頭が通りを歩いていると、見るからに遊び人という男が近づいてきた。
 「堅物で通っているのに、店の者に見られたら大変ではないか!」と、邪険にする。実はその男は、番頭が通い慣れた茶屋の太鼓持ちだったのだ。そして、就業時間中ではあるが、その茶屋に遊びにゆく途中であり、今日は船に乗って花見をすることにしていたのだ。
 番頭や芸者たちは船に乗りこむが、番頭が顔を見られたら大変ということで、障子を閉めきっての宴会となった。酒を飲むわ、歌を歌うわ、踊るわの大騒ぎ。そのためあまりにも暑くなり、障子を開け、酔っ払った挙句、丘に上がってしまう。
 「顔を見られたらヤバイよ」と、顔の前に扇子を逆さに下げ、鬼ごっこをしていたところで、店の旦那と鉢合わせしてしまう。
 番頭は一気の酔いが覚め、旦那に対して「ご無沙汰しております。お久しぶりでございます」と言いまくる。
 旦那は、番頭と一緒にいる茶屋の人たちに「楽しいのもよいけれど、あまりこの人を酔わすでないよ」と優しい声をかけて去ってゆくものだから、番頭はいたたまれない気持ちになる。

 番頭は店に戻りながら、最悪の状況を考える。
 首だな、、、明日からどうやって生きてこう、、芋を売るか、豆腐を売るか、、、。
 店に戻れば部屋に篭り、やはり最悪な状況を考える。そうしていつの間にかウトウトしてしまし、すると、番頭が小僧に成り下がり、さっきまで小僧だった奴が番頭となっていじめられるという夢を見る。
 グルグルグルグルと苦悩していたところ、小僧が呼びにくる。
 「旦那がお待ちです」
 「うるさいな! すぐ行く!」
 そう聞いた小僧は旦那に向かって「うるせぇ、すぐ行く、と言っていました!」と伝える。旦那は、「万が一番頭さんがそう言ったとしても、お前は"番頭さんは、すぐ行きますと申しておりました"と言わなければダメだろう」と諭す。
 その諭しを、旦那の部屋の前で立ち聞きしていた番頭は、またさらにいたたまれない気持ちになる。

 部屋に入ってきた番頭に旦那は、「これまでよくやってきてくれたね」とねぎらう。
 「ささ、ようかんとお茶でもどうぞどうぞ」
 番頭は、とんでもない、と遠慮する。
 「これこれ、遠慮は外でするものですよ」
 番頭、またまたいたたまれない気持ちになる。
 「番頭さん、ここまで小僧や手代の面倒を見てくるのは大変だったと思う。私が出ていこうかと思ったことも何度もあるが、それじゃお前さんの立場を危うくしてしまうし、よくないと思ったりして、出て行かなかったりしていた。でもその都度、私はお前さんを信じていたよ。そうして実によくやってくれた。・・・お前さんは、"旦那"という言葉の由来を知っているかい?」
 番頭は「知りませんで」と答える。
 「南天竺に、センダンという木があった。その周りにはみすぼらしいナンエンソウという草があった。そのナンエンソウがあまりにみすぼらしくその木には合わないからと、刈ってしまった。そうしたところ、そのセンダンの木も枯れてしまった。その木と草は相互に補い合って存在していたんだ。センダンとナンエンソウで、ダンナという言葉が生まれたんだよ。今この場では、私がセンダンでお前さんがナンエンソウ。店に出れば、お前さんがセンダンで、手代や小僧たちがナンエンソウ、関係性がかわるわけだよ。だから、ナンエンソウである下の者たちにも、露を下ろしておあげなさい。頼むよ」
 そして、「昨日は楽しかったかい?」と話しかける。
 「あれだけ派手な遊びをしているから、心配になって帳簿を調べてみたんだが、、、そんなことをする心の狭い旦那だと思って許しておくれ。ところが、やましい部分なんてこれっぽちもなかった。今まで店を守ってくれてありがとう。来年には、お前さんにも店を出してもらうことにするよ。だからあと一年、みんなをよろしくね」
 旦那のその気持ちに番頭は涙する。
 「ところで、昨日お前さんは、私とは普段よく会っているのに、"ご無沙汰しております"とか"お久しぶりです"とか、妙なことを口走っていたけれど、あれはどういう意味だい?」
 「はい。ここで会ったが百年目、と思いまして」


 書いてみると、長い!
 意味が違うだろっ!というおかしさ。
 「ここで会ったが百年目」は時間の長さは無関係で、「運命極まったとき・おしまいのとき」といった意味で・す・から〜。

 自分に厳しい人(番頭)がはめをはずしたところを旦那に見られ、「もっと外していいんだけど」と言われる話。
 逆に、「これくらい大丈夫だろう」と思ってやったことが「なぜそんなことをしたんだ!」となる場合もあるわけで、このプラスマイナスは、難しいですね。

 百年目というタイトルになっているけれど、この最後のオチよりも、旦那の台詞や、商家(に限らず、組織という中)の人間関係の方に、目は向く。
 自分自身の日常とシンクロする部分が多かったのだ・・・。
 番頭は、旦那の次に偉く、店を取り仕切り、若い人を育てないといけないものの、雇われているという意味では、小僧や手代と変わらない。中間管理職というのはそういうもので、悩める地位なのだ。
 上と番頭(自分)との関係性、下と番頭(自分)との関係性、上の人による番頭への心遣いによる下の人への忠言、あるいは、番頭のためにあえて自分は口を出さないという上の人の番頭への気遣いなどなど、それらのバランスがうまくいかないと、どこかで支障が出るのは現代でも同じでしょう。

 談慶さんの小僧っぷりとか、番頭の酔っ払いっぷりとか、アポっぷりとか、素晴らしい。

 二つの話が相互にシンクロする教訓話のような気がする。
 自分の仕事は気を抜かないでやろう、と。信頼を損なうことがないようにしよう、と。そういう商売ですから、ナカジ。