織田信長公425回忌 (1) 2007/06/02








 6月2日は本能寺の変があった歴史的な日です。
 信長様(以下、殿)が亡くなった日でありまして、供養の旅に行ってきました。

 京都の宿がとれず、行程を変更し、大阪宿泊にしました。
 1日目の予定は京都ですが、フリープランのツアーなので途中下車はできず、大阪まで行き、ホテルに荷物を預け、JR京都線で京都に行きました。いいですね、この新快速の新って感じが。新幹線が名古屋の次は京都まで止まらないとか、京王線が明大前の次は調布まで止まらないとか、そういう飛ばしっぷり、いいです。

 京都に降り立ったら、もう、感無量になっていました(笑)。

 まずは、1日バス券を購入し、バス乗り場へ。銀閣寺方面のバスに乗り、「堀川蛸薬師」下車。

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 堀川通を歩道橋で渡る際、目の前に広がる、本能寺があったとされる景色をじっと眺めました。
 烏丸通方向に蛸薬師通を歩き、1ブロック行くと、「元本能寺」の石碑が。

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 今では、一体は老人介護ホーム・堀川高校・消防署といった施設になっています。
 本能寺小学校があったときには、石碑もレトロな感じだったのですが、その本能寺小学校がなくなった今、石碑が妙に新しくて、古の感じが全くしないのが残念です。

 蛸薬師通より1本北に行き、烏丸通の方へ歩くと、京都逓信病院があり、その裏庭が、殿の首洗い井戸があったとされる場所です。

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 清玉上人が本能寺の変で駆けつけ、法衣に包んで首を持って行く途中の、本能寺から5分ばかり離れた場所で首を洗ったのだそうな。こんな近いところで洗っていて光秀軍によく見つからなかったなと思うのだけれど。
 きれいなお花は、殿の血が咲かせているのね、と。。。

 蘭丸「殿の首だけを持つって、なんだかグロいですね」
 信長「お蘭・・・そなたもそういう時代に生きておったのだが」

 また蛸薬師通に戻り、烏丸通方向に行くと、南蛮寺跡の案内板。

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 『信長の棺』によれば、殿は本能寺から南蛮寺への抜け道を作っていましたが、その抜け道を秀吉がふさいでいたため、本能寺の変の際に殿は逃げられなかったという説があります。本能寺から7〜10分くらいの場所なので、抜け道があってもいいかもしれません。

 烏丸通に出る直前、喫茶店を見つけ、昼食。
 前日が残業だったために2時間しか寝ていなく、無理すると一人旅は不安なので、腰を落ち着けようと。殿の供養が目的なので、他で贅沢な旅をしようとは思っていませんが、休憩や食事は体のためにきちんととっていこうと思った最初の食事です。

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 マエダコーヒー本店。

 蘭丸「殿は何をお召しあがりになりますか?」
 信長「うむ。このカレーが良い」
 蘭丸「量が大中小とえらべるようですが」
 信長「うむ・・・お蘭、坊丸、力丸・・・お蘭が良いの」
 蘭丸「・・・大でございますね・・・」

 薄暗い珈琲ショップで足を組んで珈琲を飲む殿って、格好いいだろーなー。
 いすの背に手をかけて。
 たばこも吸う。(きれいに)


 烏丸通を5分ほど南へ歩き、「四条烏丸」からバスで、ぐるーっと京都を左回りする感じで「河原町今出川」へ。
 バス停から徒歩10分くらいで阿弥陀寺。

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 殿と懇意だった清玉上人開基のお寺で、本能寺から殿の首を大事に持って帰ってきた場所。どうやら何かイベントが行われていたようで、既にテントなどを取り壊す作業に入っていた。
 以前に、オフ会で来ていたけれど、お墓の場所がわからなくなってしまいウロウロしていると、老婦人が案内までしてくださって、いろいろ教えてくださった。
 京都の歴史が好きな方で、どうやら旦那様と回られているご様子。『信長の棺』を書いた方の講演や住職さんのお話などがあったようで、毎年6月2日にやっているらしい(!)。来年は、これを狙ってこようと思います。
 しかし、混雑していただろう時間と外れているために、じっくり境内を散策できて、また、殿が所持していた槍や、京都所司代・村井貞勝の書状などがあって、感激〜。

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 村井の書状を見ていると、殿から言われた気がします。「村井はちゃんと仕事しておったぞ。村井の仕事ぶりは良かったぞ」と。

 お墓に行くと、信長ファンか蘭丸ファンの女性グループが卒塔婆を持ってお参りしていた。きっとオフ会のようなものなのでしょう。全員終るまでゆっくり待つとするか・・・と思っていたところ「大勢いますから、お先にどうぞ」と時間をいただき、先にお参りさせていただいた。
 お参りしていたら感無量だったものが飽和状態になり、落涙。

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 信長は蘭丸の墓前で、手を合わせた。
 「お蘭、安らかに眠れよ」
 そんな信長の背を見て、『何か違う・・・』と思う蘭丸だった。

 「お蘭」
 信長の声が優しく響いた。
 「最期は、あっけなかったのぉ」
 「さようでござりました。一気に攻められ戦って終わった、といったところでしょうか」
 信長は空を見上げた。
 「お蘭。そなたにはもっと生きてほしかった」
 「殿っ!」
 声を荒げた蘭丸に、信長は驚いた。
 「わたくしに、誰に仕えよと仰せです? 生き恥をさらしたくはござりませぬ。共に戦って共にゆけて、わたくしは幸せでござりました」
 涙を浮かべている蘭丸を、信長は抱き寄せた。
 「うむ・・・そうであったな」
 「殿が構想していた天下を、共に見とうござりました」
 「お蘭。儂は生き急いだと思うか?」
 「めいっぱい楽しんでいらっしゃったかと思います」
 「そうか・・・」
 墓前に供えられた花が、風に揺れていた。



 門を出てしばらく、じっと阿弥陀寺を眺めていました。

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 供養はここまでで終了。



 新たな遺跡めぐりということで、「河原町今出川」からバスで「同志社前」へ。地下鉄「今出川」駅から「丸太町」へ。
 京都御所の下立売御門向かいに平安女学院があり、その一角にある旧二条城跡石碑。

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 殿が将軍義昭の御座所として建てた二条御所、旧二条城があった場所とされています。
 平安女学院の建物になってしまっていて、やはり古の空気は感じられないのだけれど、京都御所がすぐ近くですし、二条城も近いですし、静かな雰囲気は良かったです。
 義昭は、まさか自分が傀儡にすぎない存在になるだなんて思っていなかったでしょう。大切に扱われていると思って「父様」なんて呼んでしまっていた義昭が哀れ。

 本能寺の変で、この二条御所に逃げ込んだ信長の長男・信忠他、多くの家臣たちがここで亡くなりました。

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 信長「信忠はどうしているであろうのぉ」
 蘭丸「換生なされば、真っ先に殿の下へいらっしゃるでしょう」
 信長「あヤツとは前の晩に酒を酌み交わしておったな」
 蘭丸「良いひとときでござりました」

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 烏丸通に菅原院天満宮を発見。なんと、菅原道真がお生まれになったところらしい!
 癌やできものにご利益があるらしいので、しっかりお参り。石に触って自分の体をなでたのでした。


 そして土曜日の締めの場所としていた、現在の本能寺へ。
 「丸太町」駅から地下鉄で「烏丸御池」へ。乗り換えて「京都市役所前駅」へ。

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 信長まつり開催中で、境内はとてもにぎやか。のぼりがたくさん立っていて、一本でいいから、欲しかったな。いただいたところで、持って帰るのは恥ずかしかったでしょうけれど。
 残念ながら本堂前は歌謡ショーのようになっていて参拝はできませんでした。
 本堂裏にある、殿の御廟所でお参り。

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 京都市役所前駅は地下街になっていて、そこの喫茶店で休憩。
 食欲はないけれど、座らないとダメだし水分をとらないと、という状況だったので、甘いものをいただきました。
 殿が祭られている「建勲神社」に行きたいところでしたが、今回は日曜用体力温存のためにやめにして、大阪に戻ることにしました。(行ったことはあるので。)


 またJRを使うのはつまらないなぁと思っていたところ、「阪急なら大阪まで380円!」という看板にひかれ、阪急で行くことに。「京都市役所前駅」から「烏丸御池」乗り換えで「四条烏丸」へ。阪急の「四条」から「阪急梅田」へ行ったのでした。

 信長「なにやらレトロな電車じゃのう」
 蘭丸「我々がレトロと言っても説得力があるようなないような・・・」


 車輌があずき色で、丸っこさがないところが、そう思わせるのでしょう。

 17時半にはホテルに入り、すぐに入浴。ヨーグルトを食べてダラ〜とすごし、眠ったのでした。




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