織田信長公425回忌 (2) 2007/06/03








 薄く目を開けた蘭丸は、窓辺に立つ人物の背を見つめた。
 「お蘭、目覚めたか? 若干雲はあるが、旅にはちょうど良い天気だぞっ!」
 蘭丸は昨夜のことを思い出し、枕に顔を伏せた。
 「殿。なぜそのように清清しくいらっしゃるのです・・・」
 「んー、お蘭。あれでは足りなかったと申すか?」
 「そうではござりませぬ!」
 「照れなくてもよいよい」
 「あッ」
 信長に触れられた箇所がじわりと熱をもち、蘭丸は顔を赤らめる。



 翌朝さすがにお腹が空き、空腹を感じられる幸せをちょっとかみしめたのでした。
 朝食バイキングで割とたっぷりめの朝食をとり、チェックアウト。
 いざ、河内長野市・金剛寺へ。

 河内長野を下調べしていたら、金剛寺は和歌山・奈良の県境っぽいところ、けっこう山の中にあることがわかった。
 河内長野駅からバスで行く場所・・・・地方都市の日曜日のバスはあなどれないので、時刻表などしっかりチェック。午前中しかバスがない! 金剛寺でどれくらい時間を費やすかが見込めないので、朝一で行けば午前中最終便では河内長野へ戻れるだろうという目算。

 地下鉄御堂筋線で大阪から難波へ。
 難波から南海高野線で河内長野へ。

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 高野線!!!!!!! 極楽橋まで行ける!!!!!! 空海を腐った視線で見ているナカジとしては高野山に行けることがわかって下調べの時点で興奮。
 大阪拠点に行けると思っていなかったんですよね・・・もっとややこしい行き方しかない気がしていたので・・・。

 電車に乗って、だんだん緑が多い景色になっていくと、いよいよだな(笑)という感じがしてくる。山が増えてくる地方都市って、結構不安にはなるのですよ、行き倒れないか(笑)。30分くらい電車に乗ると、河内長野駅到着。
 9:15のバスまでは余裕があったので、というか、余裕を持たせてきたので、書店に立ち寄る。難波・河内長野間に堺市があることを知り、時間があれば堺を歩こうと思ったのだ。
 そして、史跡めぐりには食料必須なので、パンや飲み物を購入。
 熊野古道なんかにもあるそうですが、死者が近寄ってきてノラれてしまうとか、突然の空腹におそわれて動けなくなるとか、そういういたずらがあるのです。辺鄙なところに行ったりするので、やはり食料や飲み物は持っていった方が安心なのです。


 バスが大きな通りから山道に入って10分くらいでしょうか、「天野山」下車。

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 目の前に山門が。

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 天野山金剛寺。
 信長公425回忌の創作の元にしているお寺です。
 山の中の広いお寺で、天野川の音が気持ちよく、すがすがしい空気でした。

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 ここから、殿へ貢物がいろいろ贈られ、蘭丸が金剛寺宛に副状(そえじょう)を発給していたのです。

 蘭丸「気持ちのよい場所でござりましょう」
 信長「お蘭、そなた遠いところへ来ていたのだな」

 弘法大師が真言密教の修行をした寺で、南北朝時代には天皇が居る場所にもなっていたようで、由緒あるお寺のようです。
 むかしから、僧坊において酒を造っていました。醸造元=金持ち、で時の権力者に酒やお金を献上し、寺は生き残り・・と互いに持ちつ持たれつの関係だったようです。
 現在も「天野酒」「僧坊酒」として販売されています。
 室町後期から戦国時代にかけて、多くの有名武将がこの酒を好んだそうで、豊臣秀吉がこの酒を強く所望した黒印状が残っているそうです。秀吉より先に目をつけたのが殿で(!)、殿に献上され、殿の黒印状を持って蘭丸が礼に訪れ、また、殿のお礼状に蘭丸が副状(そえじょう:内容を補足する手紙))を書いていたのではないでしょうか。

 資料を買い込み、御朱印をいただく。
 資料には蘭丸のことなんて書かれていません。寺に残っている古文書の中に、蘭丸が発給した副状が残っていたから、マニには伝わっているということでしょうか。寺の歴史的には、表に出していないことから、寺にとってはどうでもいいことなのですね・・・(T-T;)。

 バスで河内長野へ戻り、この旅の第二の目的を終えたのでした。
 ここからはオプション。でもやはり殿に関係するところにしか行かない(笑)。

 ということで、殿が押さえた堺へ。堺や大津を押さえた殿は、日本という国の全体像が良く見えていた方なのだなぁと思う。
 南海高野線で三国ヶ丘駅下車。
 仁徳天皇陵の後円部分をちょこっと歩き、国道沿いを歩く。
 仁徳天皇陵は学校で習ったときから「憧れ(=妄想)の地」みたいな感覚がありました。が、上から眺めない限り、一周歩いてもあの形が実感できるわけではないんですよね・・・。
 堺の千利休屋敷跡まで歩こうと思ったのですが、かなり距離があるようなので、ちょうどきた堺東駅(南海高野線)行きバスに乗ってみれば、3分くらいで着きました・・・。

 堺東から堺駅(南海本線)方向へ。
 15分ほどで阪堺電気軌道の路面電車が走る広い道路「紀州街道」へ出る。
 紀州街道!!!! ネーミングが素敵。いや、実際に和歌山まで続いているようですが。
 紀州といえば、暴れん坊将軍の生まれ育った場所。

 15分ほどさらに歩き、紀州街道からちょっと入ったところに「千利休屋敷跡」が。

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 利休が使ったといわれる井戸が残っています。
 殿と交流のあった利休がここに暮らしていたのねー。ここに殿の使者も来たかもしれない・・・としばし萌えタイム。
 レンタル自転車や歩きで観光している人たちがサッサと過ぎていく中、ナカジはじっくり萌えタイム。

 その後、近くの喫茶店で休憩をとり、「宿院駅」から路面電車に乗る。妙光寺入口、ザビエル公園前を通り、「綾之町」下車。
 ここから紀州街道は細い道になり、路面電車は街道をはずれていく。
 細い紀州街道は町並みが古い。
 広い通りに出る直前で左に折れる。

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 鉄砲鍛冶屋敷。
 江戸時代の建物として、とても素晴らしい資料になっているらしい。残念ながら非公開で、現在普通に生活していると思われます。
 そしてちょっと歩くと南海本線の「七道」駅。
 駅の反対側には、「鉄砲鍛冶射的場跡」の石碑。

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 本当に鉄砲の町だったんだなー、と強く思いました。そして、その元は殿だったのだ、と。


 さて、これからどうしようか、と思案。
 新幹線の時間までは5時間以上もあったのです。
 きっぷ売り場で路線図を眺めていると、JR乗り換えで、大坂城公園駅に行けることがわかり、行くことを決める。

 「新今宮」で大阪環状線に乗り換え、「大阪城公園駅」下車。
 駅を降りても、天守が見えず、一体城はどこにあるんだ??と心配になる。エライ距離歩かされるのではないか、と。

 公園全体図を見てみると、城はどこの駅からも15分くらいはかかるらしい(笑)。
 大阪城ホールの横を通り(ホールは石垣でできていておもしろかった)、青屋門から入る。
 天守閣は右方向という案内板がある。天守はどうでも良いので、左手に。
 そこかしこに、天守は右方向という矢印が出ている。だから、ナカジが歩いていく方向には人があまりいない。
 ナカジ目的地に向かって妄想中、声をかけられた。

 「天守閣はどう行ったらいいんですか?」(←関西弁)
 「えっ、(ここに来るまでに矢印がいっぱいあったんだけど・・・)天守は逆方向ですよ」
 「あ、そうですかぁ」(←関西弁)
 「(いや、いっぱいあったでしょ・・・)でも、こっちからでも、一周すればつながっていると思いますけど」
 「そうなんですかぁ〜。初めてなんでわからなのですわ」(←関西弁)
 「(思いっ切り関西の人っぽいけど・・・)私も初めてなので、全くわからないんですよ」
 「僕は関西なんですが、ここは初めてなんで。どちらからなんですかぁ?」(←関西弁)
 「東京です」
 「東京からの人に聞いてもわからんですわなぁ〜。観光ですか?」(←関西弁)
 「えぇ、そうですね。お役にたてずすみません」
 天守閣に興味のないナカジに聞いたお気の毒な方で・・・と、左に目的物を見つけ、「あっ!」とナカジ興奮。

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 連如上人の説明書き。
 公園案内板の中から本願寺に関するものを見つけ、これを求めて来ました。
 殿が10年にわたり激しく戦った石山本願寺は、遺跡は発掘されていませんが、大阪城がある場所にあったとされています。
 あったとされているので、信者さんによる連如上人の石碑などが建てられていました。
 ここを殿が攻めたんだなぁー、と。

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 そして。

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 「連如上人、袈裟掛けの松」(の根)。

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 石山本願寺のあった場所に秀吉が大阪城を造り、秀吉が作った大阪城を壊して家康が新たに城を上書きし・・・みんな、過去の人のものをなくすことで安心するというか、目の上のたんこぶがなくなる、みたいなことがあるのでしょうね。

 殿が本願寺を攻めたのは、決して宗教弾圧ではないのです。
 宗教が人をまとめて抵抗してくるそのことに危機感を持ったのです。
 その後、秀吉がキリシタン弾圧をしたのは、あれは弾圧です。やはり、信長の気が残っているものはつぶしてしまいたかったのではないでしょうか。それくらい、秀吉は信長に対して、嫉妬しつつ、大好きだったのでしょう。とナカジは思います。

 グルーっと回って、天守に入るところに着きました。
 入場料とるのかよっ!とムッとしたり、天守閣からの眺めはどうでも良かったりしたのですが、せっかく来たのだから、と最上階に上りました。資料を見ながら城を下りてゆきましたが、殿関連のいろいろな資料があり、これらを見れたのは良かったなと思いました。
 図録などを販売しているショップで、過去の殿関連の企画展のパンフレットを買えたり、長篠の合戦絵巻の一部絵葉書を買えたり、、、、殿関連のものはゲットしました。
 城内のミュージアム(?)ショップで、河内長野産「僧坊酒」をゲット。秀吉が飲んでいたものを忠実に再現しているらしい。殿じゃないところが残念ですが。

 城を出て、少し休みたいな&時間があるな、と水上バスに乗ることにしました。
 1時間のクルーズです。

 船上からの大阪城。これが一番美しいといわれているらしい・・・。

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 途中、満潮時には船の屋根を下げることで操行できるのですといった紹介で30センチほど屋根が下がりましたが、全く生きた心地しませんでした。上からの圧迫感は非常に苦手。つぶされるかと思った・・・。

 大阪城公園駅からJR環状線・京都線で新大阪へ出て、岐路についたのでした。新幹線内では買った資料を読みふけり、萌えタイムをすごしたのでした。

 心臓の隣くらいまで殿に入ってこられた気がして、なんとも充実した2日間でした。
 JR、京都市営地下鉄、大阪市営地下鉄、阪急、南海、阪堺・・・鉄子的にも満足な旅でした。




 この時代、戦場で自分が仕える人が討ち死にしたことがわかると、敵陣に単身突っ込んでゆき戦い尽きる、ということがよくありました。まあ、自殺行為といえば自殺行為なのですが。
 でもすぐ次に別の誰かに仕えるというのは、なかなか難しい。心情的にもそうだし、新しい場所において優遇されるとは限らず、むしろ疎まれる可能性の方が高い。
 優れた事務方だった堀秀政は本能寺の変を免れましたが、突然に主人が亡くなり、自分や家が生き残るためにはどうしよう!と一瞬は焦ったことでしょう。しかしすぐに秀吉の下に馳せ参じ、秀吉が天下をとるために優れた働きをしました。秀吉の方でも、信長から厚い信頼があった、仕事ができ戦場での働きもいい男は、これから信長に代わって天下をとっていこうとするところで必要な力だったのです。そうして互いに利用方法がわかっている場合には、とても友好な関係ができます。
 小姓だった蘭丸は、秀政とは役割が違い、常に信長のそばにいる身近な人でしたから、別の誰かに仕えるなんて、ありえなかったでしょう。それ以前に、主人を守るのが役割ですから、主人の危機において離れることはないのですが。
 武田信玄が病で亡くなったとき、(小姓だった)高坂弾正昌信は一人残されました。勝頼に仕えますが、父・信玄の代からの重臣は疎まれることになってしまいます。残された高坂(ら)は勝頼と意思疎通ができずに、辛かったのではないかと思います。そんなことなので、武田家は滅亡していくわけですが。
 本能寺の変を聞きつけた、京都の他の場所にいた側近や主だった家臣たちはみな、本能寺あるいは信忠が駆け込んだ二条城において、討ち死にしています。主だった家臣が共に死んだ、というのはこの時代、武将冥利に尽きることなのではないでしょうか。





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