源義朝と織田信孝〜時を超えて〜
2009年10月18日
前日に大垣にいまして、名鉄で名古屋経由知多半島の先、野間へ足を延ばしました。
東海道線を名古屋に向かう途中、岐阜駅で金の像が!
そういえば、殿の金の銅像(?)ができたというニュースをネットで見たことを思い出し、車内からは後姿ですが、わずかな停車時間に撮りました♪
伊勢湾と三河湾に挟まれているので海が見えてもおかしくないのですが、山間の町という印象。
駅がこんな感じで・・・。左手が名古屋方面、右手が知多半島の先。
環境的には歩き遍路です。大中都市以外はこんな感じなのかなとも思います。
駅から10分ほど、1本道を歩いていくと、白河天皇の勅願寺だった野間大坊(大御堂寺)はあります。
平治の乱で敗れた源義朝は、落ち延びた野間大坊で、恩賞目当てに家来の義父である長田忠致に、浴室で殺されてしまいます。義朝の、「せめて木刀一本でもあれば殺されずにすんだものをッ・・・!」という最期の言葉にちなんで、お墓には多くの木刀が供えられています。
写真では木刀が光ってしまっているのですが、すさまじくないですか?
執念のようなものを感じて、「うッ・・・」と近づくのがためらわれました^^;。
ちょっと怖く感じながらも、サイドからも撮ってみました、、、。
その脇に、殿の三男、織田信孝のお墓があります。
信孝は神戸信孝ともいいまして、というのは1568年(永禄11)、伊勢平定後に神戸城主・神戸具盛の養子になっているからです。
1572年(元亀3)、神戸氏を継ぎます。
荒木攻めに出陣したかと思えば、行政官として、村井貞勝の補佐をしたりもします。
四国征伐の総指揮官となっています。
なんかとてーも活躍していますよね。
本能寺の変後、明智光秀の娘婿・津田信澄を殺害しています。
主君の仇を討てと中国大返しをした秀吉に参陣しますが、清洲会議で秀吉が持ち上げたのは三法師・・・。信孝は三法師の後見役として、岐阜城主になります。
それから、秀吉に対して煮え切らない気持ちがあったのか、(秀吉も狙っていた)お市と勝家の結婚をとりもち、秀吉に対して挙兵します。が、やはり秀吉には勝てないとわかったのか、すぐに降伏し、秀吉も放っておきます。
賎ヶ岳の戦いで勝家側につき、勝家が自害すると、信孝は降伏しますが、二度はなかったのでしょう、野間へと送られ、自害させられます。
かわいそうなんだけど、人を引っ張っていったり、策略を考えたりする能力はなかったのかな、と思われます。ハナから諦めて、秀吉にガッツリ付いてしまった方がよかったと思うけど、きっと、「男児たるもの」という気持ちで天下を夢見たのだろうと思います。
「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
信孝の辞世の句といわれていますが、こんな露骨な句にしますかね・・・? 義朝のお墓と一緒にあることを考慮して、後世の人が作ったとも言われています。
本当に信孝が作ったのだとしたら、すごい恨みつらみですね。
本堂には、義朝殺しの絵物語が保管されているらしいのですが、これを見てくるのを忘れました・・・!!
どうでもいいですが、お寺の本堂を、誰かが入りこむことなく写真を撮れたのは、初めてです。
義朝の首を洗った、その名も「首池」が、野間駅から野間大坊へ歩く途中にあります。
民家の庭のような位置にありますが、首池が庭にあるって、どういう感じなのでしょう・・・。
義朝を殺した長田忠致は、息子である頼朝が挙兵する折に許しを請います。頼朝は許し、「軍功をあげたら美濃・尾張をあげよう」と使い倒します。
頼朝は勝利し、その恩賞として「約束通り、身の(美濃)終わり(尾張)だ」と、長田をはりつけにしてしまいます。
そのはりつけの松、があるところ。
この雰囲気、行くの、ためらわれますよねぇ・・・。
やめました(笑)。
そして、問題の長田邸跡。
・・・と、1159年のできごとと、それから400年後のできごととが同じ場所にあるということがスゴいと思うのです。これこそ歴史のロマンではないですか。
だから行ったのですが、う〜ん、二度は行かないとオモイマス^^;。
野間から終点までは単線のようで、野間駅が上下線の待ち合わせ駅になっているようでした。こちらに向かってくる電車で、名古屋方面へ行きます!(つづく)
つづきへ
別冊ナカジンの表紙へ
月刊ナカジン表紙へ戻る